東芝の軍用簡易テレビジョン装置に関する考察について
東京芝浦電気株式会社八十五年史に、戦時中に「軍用簡易テレビジョン装置」なるものを開発したとして、その写真を掲載している。
コメントには、「小型アイコノスコープを使用し昭和18年に完成、カメラを爆撃機の後尾銃座の所に取付け操縦席でテレビ像を見て射撃照準をする」とある。
レーダー分野と異なるが、このような特異な軍用簡易テレビジョン装置については、戦時中に軍部がどんな目的で開発を行ったか興味があったので少し深堀して調査するこことした。
「日本無線史」9巻 1951年 電波管理委員会からの抜粋 P413
電視(テレビジョン)が実用されれば軍事上著しい効果をもたらすことは多言を要しないが、陸軍では研究初期に於ける走査にニポー円盤を用うるようなものでは軍用として実用の可能性もないので、暫く研究着手を見合わせ民間に於ける進歩を俟(ま)つたのである。
然るに昭和5年(1930年)末ファーンズワースにより特殊走査管の研究が発表され、我が国に於いても東京電気株式会社がこの研究に乗り出し、軍用の可能性に関し稍々(ようやく)見透しが着いたので昭和9年(1934年)度から研究項目とし研究計画に載せ本格的基礎研究に着手した。
当時考えられた電視の用法は主として敵情報又は戦況の後方に於ける視察にあったから、当時の技術として已むを得なかった中介フィルム式に適応させ、繋留気球等から活動写真に撮影し、そのフィルムを落下し、地上で至短時間に現像その他の処理を行って、これを送像装置にかけると云う計画であった。
陸軍では送受像装置の研究試作を東京電気株式会社に依頼して行った。送像走査管は走査線数120本、毎秒像数25枚のもの、受像はブラウン管に依るものであった。結果は軍用として実用を距ることなお遠いものであった。
フィルムの処理方法は調査の結果、現像、定着、水洗、乾燥、送像、剥膜、感光膜定着等の処理をエンドレスに行い得る可能性とその試作も送受像装置の研究に比すれば短日月の間に竣工し得ることが判ったので、送受像装置の研究進捗を待つこととし直ちに着手しなかった。この装置は後にアイコノスコープの出現によって中介フィルム式の必要が薄らぎ、反って徒労を避け得た賢明なものであった。
その後走査線を200本に向上したが、この種走査管では早晩行き詰まりを予期していた折、アイコノスコープ出現して再び曙光を認めたのである。東京電気株式会社不断の努力研究により逐次進歩して終に走査線441本、画面比3対4、フレーミング25、フィールド50の跳躍走査にまで達した。
以上送受像装置の研究進展に伴い、無線送受信機の研究試作の段階に達したので、東京電気株式会社の完成した2キロワット水晶制御式短波無線機に範を採り、自動貨車装輪式として、その試作を同社に依頼したのである。
陸軍ではかくして電視の実用化愈々(いよいよ)近きにありとの目途を得、専任者を定めて深刻に研鑽せしめつつあったが、爾他諸研究の促進と経費の重点使用による不足等により昭和12年(1937年)度より本研究を一時打切りとしなければならなくなった。
本研究に於ては良く陸軍に協力し精励努力した送受像装置関係の長島躬行、無線装置関係の今岡賀雄の努力は一通りではなかった。
なお、前記試作送受像装置及び無線送受信装置に関しては日本テレビジョン学会発行テレビジョン年報に詳記されているので詳細に就いては、これを参照されたい。
同 P137
航空技術研究所に於ける電波兵器の研究状況は如何であったかと云うと、同所としては昭和13年、4年(1938、9年)頃から短波自体の到来を予想しつつ、通信以外如何なる方向に利用の途を拓くべきかを考究していた。着目せられる事項の第一は航法及び爆撃器材への応用即ちまず対地高度計を、次いで対地速度計を完成し、而して出来ればこれら計器を総合して自動航路描画機を構成することである。その第二は偵察器材、爆撃器材として飛行機上に-超短波送受のため所望の高度を採ることが出来る-於ける電視機、暗視機使用の能否及びその軍事的価値を研究することである。
一部省略
次に第二の電視、暗視の研究に就いては技術本部から以前通信学校研究部時代東京電気株式会社をして試作させた電視装置の移管を受けると共に当時東京電気と相並んで電視の研究を行いつつあった住友通信株式会社をしてとり会えず半固定装置の試作研究を行わしめることとした。これは昭和15、6年(1940、41年)頃のことである。
その頃、欧州戦場には既に電波警戒機、電波標定機が出現し、殊に英国防空部隊はこれら器材を巧みに利用し、夜間の邀撃戦闘に於て照空燈の照射の助けを借りることなく戦闘機を活動させ、高射砲の射撃を指導しているとの情報が伝えられていた。併し国軍に於てはこれらの器材の研究は一応技術本部で行われていたので、航空としては寧ろ電視、暗視の方へ重点を置いていたのである。
一部省略
そこで作戦上の要求もあり、旁々(かたがた)電視機の完成は姑(しばら)く揩き、まず第一着手として、機上電波警戒機、機上電波標定機及び機上電波暗視機の研究に、万般の努力を傾注するこことなった。然るに地上電波兵器の完成に同様全力を挙げていた技術本部側に一時民間製造会社の試作能力を前面てに借用したいとの切なる希望があり、航空技術研究所は大局的見地からこの要望を容れて、自所の試作注文品の完成期日を多少延期し示差き部分的研究に専念したのであった。これがため機上電波兵器の実用化が少なくとも一ヶ年遅延したのも、設計試作能力の極めて局限せられている我無線工業会の実情真に己(や)むを得ざる所であった。然るに昭和17年(1942年)中期以降米英側に於ける機上用及び艦船用電波兵器の働きは逐次活発となり、に昭和18年(1943年)に入るとそれによって大西洋に於ける独逸潜水艦の活動は殆ど封殺せられ、また後方海上連絡線が危険に晒されることによって独、伊軍の北阿作戦は完全に失敗に帰する等枢軸側の趨勢既に覆うべくもあらぬ状態となった。尤もかくて防勢に立った独逸側に於ても米、英の空よりする攻撃に対して電波兵器の活動は運用上、技術上相当注目に値するものがあった。他方東亜方面に於ては米国側電波兵器の活動によって我は得意の奇襲戦、夜襲戦を封じられたのみか遂に彼の奇襲、夜襲の危険に晒され、主客転倒その位置を換うるの事態に立ち至った。戦力を支配する電波兵器の威力は正に驚異的である。さればその完成を促進することは国軍作戦上の至上命令であって、茲に昭和18年(1943年)6月多摩陸軍技術研究所の誕生を見るに至ったのである。
以上のように日本無線史による陸軍の電視機に関する開発動向を概観する。
陸上部隊のための陸軍技術研究所は、昭和9年(1934年)度から研究項目とし研究計画に載せ本格的基礎研究に着手している。
更に陸軍では電視の実用化の目途がたったとして、専任者を定めて研究を進めたが、諸研究の促進と経費の重点使用による予算不足等により昭和12年(1937年)度より本研究を一時打切りとしなければならなくなった。
一方、航空技術研究所に於ける電波兵器の研究状況昭和13年、4年(1938、9年)頃から、通信以外の用途に応用すめるかを考究していた。着目した事項の第一は航法及び爆撃器材への応用即ちまず対地高度計を、次いで対地速度計を完成し、出来ればこれら計器を総合して自動航路描画機を構成することであった。その第二は偵察器材、爆撃器材として電視機、暗視機使用の能否及びその軍事的価値を研究することである。
なお、陸軍地上部隊としては電波兵器(レーダー)器材の研究は陸軍技術本部で行われていたので、航空としては寧ろ電視、暗視の方へ重点を置いていたようだ。
しかしながら、昭和17年(1942年)中期以降米英側に於ける機上用及び艦船用電波兵器の働きは逐次活発となり、防勢に立った独逸側においても、米、英の空軍の攻撃に対して電波兵器の開発が活発化したことにより、我が国で電波兵器(レーダー)器材への開発に集中するこことし、それ以外の電視機などの新規開発は中止されることになったのだろう。
なお、昭和18年(1943年)6月に陸軍技術研究所と航空技術研究所の電波兵器(レーダー)の研究開発を一本化した多摩陸軍技術研究所の誕生を見るに至った。
このような経緯により、開発メーカーである東芝は電視機(テレビジョン)の軍事研究の中止を受けることになるのだが、兵器化されないのであればこの研究成果を世に問うても何等制限を受けることはない。
このような経緯で堂々と月刊専門雑誌「無線と実験 昭和17年10月号」に研究成果を公開してメーカーとしての幕引きとしたのだろう。
なお、東京芝浦電気株式会社八十五年史には、「小型アイコノスコープを使用し昭和18年に完成」とあるが、昭和18年度はレーダー開発・生産一色となりその外、当面実用化が困難な電視機(テレビジョン)などが研究対象から除外されているはずであり、更に雑誌の掲載が昭和17年10月号であることから、昭和18年度に開発というのは誤記と判断される。
月刊専門雑誌「無線と実験 昭和17年10月号」
携帯用として設計せるテレビジョン端局装置の諸機構
東京電気株式会社研究部機器設計課 篠崎健吉
記事概要
携帯型テレビジョン端局装置と称され、小型のトラック1台で運搬できる程度のものが実現した。筆者の研究室に於て、昭和17年春完成したこの種装置に就き、その概要を紹介する。
カメラと4個のケースとで足りる。この重量は約187kgで、カメラ・ケーブル50mを使用すれば、総重量292kgとなり、消費電力は約800Wである。
カメラは対象物の状況に応じて、数台を適時切替へて使用することができる。
カメラの焦点調節用セルシン電動機(シンクロモーターのこと)の如く、必要欠くべからざるもののみを整備している。
横偏向(水平同期)周波数が11,025c/s、垂直同期周波数50c/sである。
戦時中の米国の軍用テレビジョン開発の動向について
MILITARY TELEVISION EQUIPMENT BUILT BY RCA 1940-1945からの抜粋
最初のブロックの開発作業は 1940 年に始まりました。
すべてのメーカーのブロック システムはすべて、水平レート 14,000 Hz、毎秒 40 フレーム、ノンインターレース、垂直走査線 350 本という規格に準拠していた。
ATE、ATF、ATG、ATH テレビカメラ/送信機シリーズは、ブロック 1 として知られている。カメラと送信機は 1 つのケースに収納されている。 このセットは、78、90、102、および 114 MHz の 4 つの固定周波数で構成されている。 両側波帯伝送を使用しているため、チャネル幅は 9 mc である。 RF電力は15ワットである。 ピックアップ管は 1846 アイコノスコープ、出力管は 829 である。入力電圧は 12.5 VDC である。 システムのコンポーネントは、CRV-59AAA から AAD カメラ送信機、CRV-21ABY ダイナモーター、CRV-66ACS から ACV アンテナ、および CRV-60AAR モニターである。
Signal Corps バージョンのカメラ/送信機は SCR-549-T1、T2 である。 受信機はSCR-550-T1、T2である。 陸軍空軍セットは、デザインが若干変更されている点を除いて海軍セットと似ている。
・テレビを備えたパイロットのいない飛行機を高速で地球に急降下させ、飛行機の翼の応力を研究した
・大型の海軍航空機の銃座にカメラが設置され、テレビによる射撃管制の照準器が作成された。
・航空母艦、巡洋艦、戦艦では、小型カメラを使用して、船全体が撮影された。
・最初の原子爆弾用のプルトニウム製造が行われたワシントン州のデュポン社ハンフォード工場では、これらのカメラは原子炉に積み込むクレーンを監視するために使用された。
・1943 年の国防研究委員会 (NDRC) 開発契約に基づき、RCA の下請けである NBC は、無操縦機、実験機、または無線操縦機から管制機や無線操縦機への航空機計器の伝送を遠隔測定するのに適したテレビの狭帯域システムを開発した。
・テレビ誘導を備えたROCと呼ばれる中角誘導爆弾型ミサイルの使用が含まれていた。 このシステムは、ミサイルの機首に設置された小さな円筒形のカメラ ユニット、小型送信機、電源、およびダイポール アンテナで構成されていた。
・この装備は長距離、高高度の偵察活動のために開発された。 有人操作向けに設計されており、高精細度テレビ画像の制作に比べて重量と複雑さは二の次でした。
【総合コメント】
・東芝のテレビジョン端局装置の仕様について
テレビジョンの走査線は明記されていないが、横偏向周波数が11,025c/s÷垂直同期周波数50c/s=220.5であることから、飛越走査(Interlace scanning)を採用しているとすれば、1画面当たりの走査線数は220.5本となる。
なお、端数の0.5というのは、最初の1本、又は最後の1本がその水平の長さが画面の幅の半分しかないことを示している。
したがって、水平方向へふらせるのは、1画面あたり220.5×2=441回、そして1秒間当たり50c/s÷2=25回となる。
このことから、走査線が441本で,毎秒画数は25枚であることが判るが、これは昭和15年の東京オリンピックのTV放送を目指した我が国のテレビの放送基準に適合している。
なお、戦後日本が採用したNTSC規格は、走査線が525本で,毎秒画数は30枚である。
・東芝のテレビジョン端局装置の真の使用目的について
あくまで建前は民生用の携帯型テレビジョン端局装置として解説を行っているが、2台のカメラを50mのケーブルで接続して遠隔監視できる機能がある。
しかも、カメラは無人でカメラの焦点調節はセルシン機構(シンクロモーター)により遠隔で行われる機能も付与している。
TV放送であれば、カメラマンがカメラを操作するのが基本であるが、何故か無人による遠隔監視装置として設計されている。
このことから、爆撃機の後部座席に銃座を設け、操縦席で遠隔射撃するのであれば、左右に無人カメラを設置と敵機の標定のためには複眼と焦点調節は必須であり、本機においてその機能を全て満足していることが理解できる。
ただし、昭和17年10月の無線と実験のこの記事を読んでも陸軍の「軍用簡易テレビジョン装置」とは当時の読者は想像だにしなかっただろう。
・米国の開発動向
米国では軍用テレビジョンを多目的用途に活用していたが、日本と同様海軍の大型航空機の銃座に活用にも計画していたようだ。
更に、航空機の銃座にはテレビ使用から、ロックオン機能付き(?)のレーダーを応用する方式に進化しているが、当時では技術不足なのか頓挫したようだ。
AN/APG-15Bレーダー
ボーイングB-29Bは革新的な尾部銃システムを採用した。これは新たに導入されたAN/APG-15Bレーダー火器管制システムによるもので、ゼネラル・エレクトリック社のガンコンピューターと“Ella”としても知られるIFF(Identification Friend or Foe)ユニットに接続されていた。
この先進的なレーダー・システムは、接近する敵機を探知し、追尾射撃に必要な計算を自動的に行うことができた。しかし、AN/APG-15Bシステムは困難であり、現場では効果がないことが判明したため、ほとんどの航空機から取り外されることになった。
・日本海軍のテレビジョン開発に関する動向について
海軍がパルス式レーダーを開発しているとの情報が陸軍に伝わると早速陸軍も同じくレーダー開発に着手する。
また、陸軍・登戸研究所で大型マグネトロンを使用した殺人光線として利用可能について研究すると、対抗して海軍では高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験を開始する。
同様に、陸軍で「軍用簡易テレビジョン装置」の開発を進めると、海軍でも同様な開発が進められると想定していたが、公式資料を見る限り写真電送装置(ファックス装置?)や特殊画字伝送装置などの開発を行っているが、テレビジョン応用までの実用化研究を行っていないようだ。
・アイコノスコープの見本(国産品)
・参考情報
昭和15年のテレビジョン実験放送風景
テレビジョン 日映科学映画製作所製作
https://www.youtube.com/watch?v=i7-ipaNCkdw
・暗視機の開発について
A short survey of japanese radar Volume 1からの抜粋
住友通信工業株式会社 生田研究所
暗視管(ノクトビジョン管)(1943年1月から1945年7月まで)
直径45mmと80mmのノクトビジョン管用の半透明なAg-Cs光電カソードに関する実験が行われたが、予想された結果は得られませんでした。
Noctovision Tube (Jan. 1943 to July 1945)
Experimental work has been made on Ag - Cs semi-transparent, photocathode for tubes 45 mm, and 80 mm, in diameter. Anticipated result has not been obtained.
参考文献
Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radar, 1 April 1946
「日本無線史」9巻 1951年 電波管理委員会
東京芝浦電気株式会社八十五年史 昭和38年発行
本邦軍用無線技術の概観 大西 成美
無線と実験 昭和17年10月号
MILITARY TELEVISION EQUIPMENT BUILT BY RCA
https://www.qsl.net/w2vtm/mil_television_history.html
Aircraft Turrets And Defense Tactics
https://www.youtube.com/watch?v=Hf3TV_sLnCc
TUBE AMP 研究室のブログ
私の秘蔵品です。 アイコノスコープ (撮像管 RCA1846)
https://ameblo.jp/tube-amp-mania/entry-12559516639.html
A short survey of japanese radar Volume 1
コメント