海軍技術研究所・電波研究部における空二四号の研究開発に関する考察について

日本電気の小林正次さんの「日記」<未完の完成>に「空二四号」なるレーダーに関する記載があります。
しかしながら、日本無線史などの公式文書には、この空二四号に関する具体的な資料はありません。
今回は、この謎の海軍航空機搭載用の空二四号に関する調査を行うこことしました。

「日本電気ものがたり」からの電波兵器の関連のところを抜粋
小林正次さんの「日記」<未完の完成>から、研究所生田分所の解説から終戦にいたる経緯を辿ってみます。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める。
昭和19年5月2日
犬吠埼にタチ二〇の実験、三〇〇〇メートルの飛行機を50キロまで高度を正確に追いかけることが出来た。
昭和19年7月8日
タチ二〇は急速整備をすることとなった。一〇〇キロまで高度が測定できるものは世界に類がないので大いにやることになる。
昭和19年8月15日
タチ二〇は最重点兵器となった。伊藤大佐同行、横須賀-野比に行き二四号の対艦試験を行う。対駆逐艦二六キロの成績を得た。二四号も重点兵器となる可能性あり。 
昭和19年12月6日
昨日イ号が熱海の玉の井旅館に命中して火事を起こしたという。B二九の電波暗視機を見る。波長三センチ、受信管は金属管を用いた導波管を使いこなしてある。大変参考になる。
昭和20年7月9日
原島君から波長五センチの受信管の完成報告を受ける。外国にも例のない立派なものが出来上がった。大変愉快である。これによって重要兵器が出来上がるであろう。
昭和20年8月15日
我が国は、あまりにも科学技術を軽んじた。今後の行きかたは科学技術の育成ということを第一にかんがえなければならぬ。各人の仕事に改めて目標を至急着けてやる必要がある。新しい日本への具体的な仕事の目標を示してやる必要がある。

小林正次さんの「日記」から空二四号に関する関連事項のみを抜粋する。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める
昭和19年8月15日
タチ二〇は最重点兵器となった。伊藤大佐同行、横須賀-野比に行き二四号の対艦試験を行う。対駆逐艦二六キロの成績を得た。二四号も重点兵器となる可能性あり。 

更に、海軍技術研究所・電波研究部の組織図(昭和19年2月)には、第六科(航空機用探信兵器)の研究項目として第二班24号(担当:新川)とあり、日本電気の小林正次氏の日記にある空二四号と完全に符合することがわかる。
更に、空二三号(担当:高橋)なる別項目の研究テーマも並行して研究開発が行われている。
a-1


海軍技術研究所・電波研究部の第六科(航空機用探信兵器)の研究項目である空23号及び空24号については、本来は空技廠の所管にもかかわらず航空機用電探の重要な基礎研究のテーマであることは想像できる。
このようなことから、この航空機搭載の電波探信儀は、センチ波を利用したPPI表示式レーダーである可能性が高いと考えられる。

更に、開発に至る当時の背景について以下に考察する。
PPI表示レーダー開発の経緯(公式資料からの抜粋)を整理すると以下のとおりである。
・陸軍 タキ14は1943年(昭和18年)8月末に研究を開始した。東芝通信社に試作を命じた。
・1943年(昭和18年)2月2日と3日の2回目の作戦任務で、H2Sはドイツ軍によってほとんど無傷で捕獲された。
・1944年(昭和年19年)1月25日 電波外資第27号 英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独逸側の対策を本国(海軍)に伝達
・1944年(昭和年19年)12月12日から15日 B29のWestern Electric社製のAN/APQ13の陸海軍合同で分解調査
・1945年昭和20年)1月24日から2月8日まで、米潜Darter搭載のSJレーダーを詳細な取扱説明書に基づいて調査

この資料で分かることは、日本で最初にPPI表示レーダーの開発を目指したのは、1943年(昭和18年)8月末から陸軍のタキ14である。
この開発参考元は、ニューギニア戦線で鹵獲した米軍のSCR-717と推定できるが、公式記録にはない。
鹵獲したレーダーは陸海軍での技術情報共有と対応する開発方針が確認されたはずだが、陸軍はタキ14として東芝へ、海軍は空24号として日本電気へと試作を命じたのだろうか。
この時点(1943年(昭和18年)8月末)での日本側の技術的限界は、米軍のSCR-717がマグネトロン(磁電管)を使用した3Ghzを使用していたにも関わらず、両社には実用的なマグネトロンを用意しておらず、従来管の三極管による1Ghz帯(波長25から27cm)で対応するしか手立てがなかったのが実態であった。
唯一3Ghzのマグネトロンを使用した日本無線の2号電波探信儀2型があるが、受信機の不安定さのために実運用には大きな課題を抱えている状態だった。
1944年(昭和年19年)7月以降になって、受信機に鉱石検波器を使用したスーパヘテロダイン方式が採用され、真の意味で実用化が完成した。
日本無線がこのプロジェクトである米軍のSCR-717の技術情報へアクセス可能であれば、受信機のスーパヘテロダイン方式への転換はもう少し早期に実現できたのかもしれない。
もう一つの課題は、日本無線のマグネトロン(磁電管)の艦艇用のため水冷式であったことから、航空機に搭載するためには空冷式のマグネトロン(磁電管)を新たに開発する必要があった。
このためマグネトロン(磁電管)方式を避けて早期開発したいとの陸海軍の研究所と東芝と日本電気のメーカーとの思いが一致したのであろう。

【推論による結論】
このように少ない情報で空二四号の機能を類推すると以下の通りである。
名称 海軍 空24号 航空機搭載用電波探信儀(水上見張用)
波長25センチ(1200Mhz)のセンチ波の採用は、PPIの用途目的であり、陸軍のタキ14に相当であろう。この開発の手本としたのが米軍のSCR-717である。
製造 日本電気
用途 15kmまで中型攻撃機 対駆逐艦26km
昭和18年12月20日には試作品完成、昭和19年8月15日には兵器化完了を目指した。

なお、空23号については、2号電波探信儀2型の派生型及び米軍のSCR-717からのPPI方式の電波探信儀を日本無線が担当した。 
実務的には、この空23号をベースに水冷式マグネトロンM-312をもとに空冷化マグネトロンM-314の開発がこの時点で行われたものと思われる。
なお、空技廠により新規プロジェクトとして1944年(昭和19年)7月から海軍5号電波探信儀1型(51号)の新規開発に着手した。
このため、空23号及び空24号の研究開発は一旦中止し、空技廠へ一本化され、海軍技術研究所電波研究部はこのプロジェクトに協力する体制をとるに至ったものと思われる。
水冷式M-312の見本
 a-2

空冷式M-314の見本
 a-3


【疑問点】
日本電気の小林正次さんの「日記」には空二四号の機能に関する内容が記載されていない。
特筆的なものの開発であれば、ここでは電波暗視機などのPPIに関するキーワードを日記に記載してもよいと思うが実際なにも書かれていない。


<根拠資料>
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行)からの抜粋
電探用送信機としては多くの種類を製作したが、これらの大半は三極管方式によったものである。
これは機器内に使用する真空管は極力同一規格の三極管を用いるもので、操作保守を能率的かつ簡便にするには極めて有効な方式である。
もちろん三極管で超短波を発振することには、構造的にも周波数の限界があるが、当社では極力この方針を推進して、戦争末期に当局から磁電管の製作を要請されるまでこの方針を貫き各種の特色ある兵器を完成した。
このうちには三極管を使用した極超短波(マイクロ波)の電探がある。
これは波長30~60cm(周波数500~1000Mc)のもので、それまでの超短波を用いたものよりもはるかに分解能のすぐれたものであった。

日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋
この電波探知機はB-29来襲の際、その早期発見に役立った。しかし、連合国はさらにマイクロ波を利用するまでに進展していたのである。
また、「板極管」の開発と生産が生田を中心に行われた。しかし、従来の三極管では有効利用の波長の限界は1.5mであったが、レーダの精度向上のために数10cmの電波を用いる必要かあり、1944年4月に、ドイツからシャイベンレーレといわれる三極管の使用の情報を得た。これを推測しながら試製してできたのが、JRBという板極管であったが、「成績ハ良カッタガ試作管ガ出来上ガッタノミデ、終戦トナッタ」のである。
純技術的にいうと、メートル波とセンチ波の相違、システムエンジニアリングの欠如、正確な測定技術にもとづく定量的設計の欠如など、技術開発の遅れは否めないが、マイクロ波通信がレーダの延長上にあったから、無線誘導機、無線誘導爆弾の開発を含めて、自力開発の経験は貴重であった。

A short survey of japanese radar Volume 1から抜粋する。
住友通信工業株式会社
パルス波発振用超高周波送信管(1941年8月~1945年8月) 
1941年に研究を開始、最初の製品は波長3m、出力10KwのTR-593、1942年には波長4m、出力50KwのTR-594が完成した。1943年(昭和18年)には TA-1504(波長1.5m、出力5Kw)、TA-1506(波長80cm、出力1Kw)が製造された。1943年から1944年にかけては、波長28cmの送信管を研究し、出力1KwのLD-212-Cを開発、1945年には特殊な構造(板極管のこと)を利用して波長10cm、出力1.25 KwのLD-22-1Bを開発したが、実用化には至っていない。上記の出力値はピーク出力値である。

SCR-717-A & SCR-717-B Microwave Small-Package ASV Setsの概要
用途:SCR-517から開発されたマイクロ波小型パッケージASV。SCR-717-AはパイロットとオペレーターにBスコープを提供し、最大範囲は5、20、50、100海里。前方または後方180°を任意にスキャンできる。SCR-717-Bはパイロットとオペレーター用のPPIスコープで、最大レンジは4、25、40、100海里。すべてのレンジで360°スキャンが可能で、4マイルレンジではオープンセンター表示が可能である。
 b-1

b-2


<参考資料>
A short survey of japanese radar Volume 1
<陸軍航空機搭載レーダーの概観>
最初の陸軍の航空用セットであるタキ-1は、日本無線によって1943年に設計から設置までわずか6か月で製作された。これは200メガサイクルで10キロワットピーク出力で動作した。表示は距離電子マーカーで区切られたシンプルなAスコープ上で行われた。送信機と受信機を3つのアンテナのいずれかに切り替えることで一定の方向探索が可能であり、機首の八木アンテナと胴体の両側にあるダブレットが使用された。これは海上捜索には非常に満足のいくものとされ、1000セット以上が製造された。その後も小型で軽量なモデルが時折登場した。
タキ-1が提供する表示の精細度を向上させる必要性が認識された。そのため、1943年8月には多摩研究所で27センチメートルの波長の航空用レーダーであるタキ-14の研究が開始された。三極管の送信管を使用した最初のセットは、1944年8月に多摩研究所の魚住少佐の指揮の下で完成した。アンテナはパラボラ反射鏡を持つ八木アレイでした。重爆撃機に搭載された場合、このセットの範囲はわずか25〜30キロメートルであり、ほとんど十分ではないと考えられた。1945年2月までの一連の実験により、送信伝送路とアンテナの改良により範囲は40〜50キロメートルに拡大された。製造工場へのB-29の爆撃により生産は非常に困難となり、そのため終戦時の8月までに実際に設置・使用されたセットはなかった。この期間中、キャビティ調整の使用を含む継続的な実験により、範囲は70〜80キロメートルにまで向上した。
27センチメートルでのタキ-14の開発と並行して、多摩研究所では同一の装置を使用し、10センチメートルの送信管に対応するように無線周波数回路を変更した研究が行われ、タキ-24が生み出された。同時に、住友通信工業の生田研究所では、5センチメートルのセットであるタキ-34の開発が行われた。送信にはマグネトロンが使用され、局部発振器には速度変調管が使用された。パラボラアンテナの位置に対応したスイープを持つPPI表示がスコープ上で磁気偏向コイルを使用して行われた。これは日本上空で墜落したB-29の構造を見た後に開発された。このセットは1945年7月に多摩のエンジニアに引き継がれた。
これらの磁電管のサンプルは、太平洋アメリカ陸軍軍隊総司令部の信号参謀長事務所によって、アメリカ合衆国に送付された。
実際の飛行テストは行われなかったが、東京の南にある半島の網代の高地からの実験では、近くの山々でわずか12〜15キロメートルの範囲しか示さない結果が示された。このセットおよびそれに関するすべての回路とデータは、終戦の前日である8月14日に、製造者によって破壊された。

<海軍航空機搭載レーダーの概観>
航空機搭載用レーダーに関する最初の開発作業は、1941年11月に海軍によって行われ、150メガサイクルで作動する哨戒および探索セット(H-6型)が開発された。その後の数年間で、これらの優れた満足のいく性能を持つセットが日本無線株式会社によって約2000台製造された。H-6は、戦争末期には、より軽量でコンパクトなFK-3に道を譲ることになった。
海軍は、レーダー爆撃が可能であれば、海上哨戒に使用される 150 台のメガサイクル セットよりも優れた解像度が得られることが望まれることを十分に認識していた。
この目的で10センチメートルの艦船搭載用セット「22号」を改造する試みも行われたが、このプロジェクトは失敗に終った。
その間に、ロッテルダム・ゲラーテと呼ばれる10センチメートルの航空用探索セットの設計仕様が、ドイツから無線電信で受け取られた(現在、そのデータはドイツ軍がロッテルダム上空で撃墜した初期のイギリス製H2Sセットからのものであると考えられている)。受け取ったデータを基に、海軍技術研究所はそのような装置を開発した。その結果、回転パラボラアンテナとPPI表示を備えたマグネトロン駆動の51号セットが作られた。しかし、テスト結果は期待ほど良くなく、海岸線上での射程は約20キロしか示さなかった。3つのセットのうち2つは破壊され、残りの1つのセットは極東航空軍の航空技術情報部によってアメリカに送られ、調査のために提供された。51号の回路図は、本調査の付録IIに掲載されている。

<陸海軍の連携協議>
陸軍と海軍がアイデアを交換せず、同じ装備を使用しないことによって引き起こされた効率の大幅な低下は、各工場で完全に分離された研究、技術、製造部門を維持しなければならなかったメーカーによって強く指摘された。これはついに一部の高い地位の人々に認識され、1943年8月に陸海委員会(日本海軍陸軍電波技術連絡会)が設立され、陸軍と海軍のプログラムを調整するために活動した。委員会は月に一度会合しましたが、陸軍と海軍の間でさえ同じIFFセットの使用について合意することができなかった。海軍は145から155 mcを掃引するトランスポンダを持つセットを採用したが、陸軍の搭載セットは184 mcの周波数で受信し、175 mcで再送信した。したがって、陸軍は日本海軍の航空機と敵機を区別することができず、海軍も日本陸軍の航空機に対して同様の問題を抱えていた。陸海共同委員会の主な貢献は、小型ウルツブルグクセットの発注について両軍をまとめることと、現行の海軍の51号と陸軍のタキ-14に続く次の搭載セットが共同でスポンサーされることに合意することでした。
 b-3

この最後のプロジェクトにおける協力についてさえ疑問が存在し、戦争終結時に陸軍が積極的に5 cmセット(タキ34)の実験を行っており、海軍の参加はなかったようである。




参考文献
A short survey of japanese radar Volume 1
日本電気ものがたり (1980年)
日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行)