日本帝国陸海軍電探開発史

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2023年09月

航空母艦葛城の電波兵器について
皆さんは航空母艦「葛城」のことをご存じですか。
時既に遅く、中型制式空母として竣工した時には、艦載機もパイロットも手当できず、一度も戦地で戦うこともなく、温存処置としてただ内地で係留され続け、度々の米軍艦載機の空襲で損傷するも、終戦時まで空母として航行可能な状態で唯一残存した。
活躍できたのは戦後の復員輸送艦として南方の戦地からの引揚げに従事したことでした。
資料収集の過程で葛城のYouTubeの動画も発見しましたが、復員兵は復員の喜びの様子は外見ではみせず、坦々としつつも内地に帰還できことへの安堵感を動画から読み取ることができました。
なお、復員兵は今日の新型コロナと同様に防疫のため全員マスク姿が印象に残りました。
今回は空母葛城に関する情報を手持ち資料とネットの力で整理してみました。

YouTube戦後の帰還兵 空母「葛城」でラバウルから帰国  
(1946年 空母葛城と装甲巡洋艦八雲)
雲龍型航空母艦三番艦。1944年竣工。第一航空戦隊で活躍。小破したものの航行可能な状態で終戦。武装解除後、特別輸送艦(復員輸送船)として使用。
1946年3月に広島県大竹港沖に空母「葛城」と旧式巡洋艦「八雲」が帰還者を乗せて到着。
空母「葛城」は大型高速艦で、終戦後に復員輸送艦として改造され、本土より遠い南洋方面の復員兵輸送を行い、1回で約5千人を輸送したという。
約1年の間に8航海、計49,390名の復員者を輸送。
1947年 日立造船桜島工場で解体完了。
大竹港は地方引揚援護局の一つで、帰還者輸送船は1947年1月までに約200隻の色々な船舶が入港し、約41万人が帰還したという。
内訳は軍の復員兵が約三分の二と多く、残り約15万人は民間人であったという。
地域別では台湾やインドネシア等の東南アジア諸国や南部、中部太平洋諸島の他に朝鮮、満州等各方面にわたり、特に南方方面からの復員兵が多かったという。

航空母艦葛城の戦歴について
雲竜型の3番艦で、最後の空母として19年10月15日に呉工廠で竣工したが、すでに戦局の悪化により空母として使用することなく、呉に待機していた。
20年3月19日、呉に敵艦載機の空襲がより直撃弾1発をうけ、右舷艦首に直径2メートルの大穴をあけて、戦死11名の被害をだした。
7月24日の第二回の空襲で、左舷中部に1発命中したが、これは上面をふきとばされただけで、大した被害はなかったが、戦死13名をだした。
7月28日に第三回目の空襲をうけ、爆弾2発をうけたが、被害は飛行甲板だけで水線下には異状なく、沈みも傾きもしないで最後まで残存した。
そして、終戦後は復員艦として働き、南方各地から多く人びとを内地にはこんだ。
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まずは、Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946に記載れている空母葛城の関連項目を抽出します。

機器の設置 B.設備の整備
WDC(NavTechJap Document No.ND21-6276)に提出された艦上設置マニュアルには、終戦時に使用されている艦船レーダー装備および電波探知機の設置ノートと相互接続配線図が記載されている。
降伏時点でも、電子妨害装置は艦船に設置されていなかった。
最短の距離でアンテナ動作することと、電子機器を収容するのに十分な容積の区画を選定する必要があるが、これら各装置は通常、充分な区画を占有していた。
可能な限り最適なダメージコントロールを行うために、重複機器の分散が行われている。
この実例は、2つの対空見張用レーダーが艦橋塔の構造物に設置されているが、可能な限り分離され、空母葛城(CV KATSURAGE)において記載されており、フライトデッキの右舷中央に位置する格納プラットフォームに第3目の対空見張用レーダーを設置していた。
区画内の機器の実際の配置は、設置を行う海軍工廠の裁量に大きく委ねられていた。
その結果、ほとんど標準化が行われなかった。
図1は、標準的な2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)の射撃管制と対水上見張用レーダーの設置に関する問題点を示している。
 fig1


葛城におけるこのような配置は、2人の操作員による同時に探信距離(ranges)と方位角測定(bearings)の操作上の運用に問題を生じさせた。
複雑なコントロールを調整しているレーダーオペレーターの業務をほとんど困難にさせた。
満杯の運転スペースでの送信機と整流器の設置位置では、通常、換気システムが不十分のため処理できるよりも大きな放熱をもたらしたことになる。
この問題の対処についは、連続的な運転操作を避けることによってしかなかった。
日本の艦船のレーダーコンパートメントにはプロット施設(レーダーによる目標情報をプロットするためのクリアボード)は見られなかった。
別添(B)(C)、(D)には、2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)、2式2号1型改2(Type 2 Mark 2 Model 1 Modification 2)、及び空母葛城(CV Katsurage)に設置された2組の3式1号3型(Type 3 Mark 1 Model 3)レーダーの写真と索引スケッチが含まれる。
スケッチは、これらの区画の一般的な配置を示している。
電波探知機はレーダーと同じ区画に設置され、通常は運用中に連続的に人が常駐していたため、通常はある程度の好みの位置に設置されていた。
別添(B) 2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)

h-0 (1)
h-0 (2)

h-1 (3)

h-1 (4)

h-1 (5)

h-0 (3)


別添(C) 2式2号1型改2(Type 2 Mark 2 Model 1 Modification 2)
 i-0 (1)

i-0 (3)

 i-1 (2)-1

i-1 (3)

i-1 (4)
 
i-4

i-0 (4)


別添(D)3式1号3型(Type 3 Mark 1 Model 3)
 j-0 (1)

j-0 (3)

 
j-1(2)

j-3

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j-0 (4)


C.電源供給とケーブル
10センチメートルの対水上見張用および射撃管制装置は、特殊な電動交流発電機で作動する。
射撃管制装置の場合、このユニットからの出力は、非常に安定した電源を生成する電圧安定器に供給された。
終戦時に健在で最も現代的な戦闘船のひとつであった空母葛城(CV KATSURAGI)は、主発電機からの直流電流のみを生成し、すべてのレーダー機器は個々の電動交流発電機から作動させた。
電動交流発電機は通常、主電源配電盤に接続されていた。
相互接続配線は一般的に貧弱で、図2に示すような接続は珍しくなかった。 
k-fig2

 使用されたケーブルのほとんどは外装を施されていましたが、多くの場合、ケーブルは腐食に対して保護されずにデッキとバルクヘッドを通過することが許されていた。 
ケーブルシールドのボンディングはほとんど行われておらず、多くの場合、元の設置の一部としてではなく、装置からトラブルを取り除くために行われていた。 
多くの場合、ケーブルクランプを容易にするために隔壁に木材を使用していた。

D  耐震マウント
耐震マウントは、送信機や指示装置などの最も重要な区画でのみ使用され、残りのユニットは木製のテーブルにボルトで固定されているか、デッキに溶接されたブラケットに取り付けられていた。 
使用されたマウントは一般的に標準的なロードマウントと同様に設置された。
 図3は、受信機(3)と電圧コントローラ(4)が木製のプラットフォームとデッキに直接ボルト止めされた耐震マウントの2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)送信機(1)を示している。 
真空管にはかなりのトラブルがあったが、その原因は、発砲の衝撃よりもむしろ生産の不均一性の結果であると言われている。

E 高周波伝送線(.R.F伝送ライナー)およびアンテナ
10センチメートル波装置のための75ミリメートルの円形導波管の設置は、標準的なフランジ接続を使用して従来の方法で行われていた。
ライン内の水分にはほとんど問題はなく、亜鉛めっきはうまく処理されていると日本側は主張していたが、駆逐艦から取り外された1回の検査でめっきが悪い状態であることが判明した。
単純な2本の平行線は、全ての対水見張用レーダーを設置するために艦船上部で使用された。
同軸ケーブル線は、潜水艦の設置に用いられた。
図4は、3式1号3型(Type 3Mark 1 Model 3)装置の二重化の標準的な設置方法を示している。
 k-fig4


様々なタイプの柔軟性および剛性の同軸線が相互接続配線および潜水艦設備に使用されていた。
これらのラインの仕様および構成に関する詳細は、NavTechJap Report、 "日本の高周波伝送ライン、導波管、導波管継手、および誘電材料"、索引番号E-20から入手できる。
図5と図6は、照月(TERUTSUKI)クラス駆逐艦の2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)と3式1号3型(Type 3 Mark 1 Model 3)アンテナの標準的な設置を示している。
 k-fig5

k-fig6


 改3(メーター波)逆探受信機アンテナは、通常、桁端(yardarm)に固定された無指向性メトックス(metox)アンテナと、対空見張用アンテナのすぐ上にある小さなプラットフォームに取り付けられた指向性ラケット型アンテナとが設置された。
図8は、航空母艦の典型的な設置を示している。
 k-fig8


この場合、2組のメトックスとラケットアンテナを見ることができ、1つはアイランド構造に設置された各対空見張用レーダーに対して設定される。
3型(Model 3)(センチメートル波)の電波探知機は、手持ちのパラボラアンテナを利用しており、固定設置は潜水艦でのみ行われたようである。
※メトックスとは電波探知機のこと

機器に関する技術データ
対水上見張のための改417と、対水上見張と射撃管制管理のための改4が艦上に設置された。
表Ⅲには、終戦時に使用中で開発中のすべてのRCM装備がリストされている。
メーター波(E27)とセンチメーター波(3型)受信機の両方が事実上全ての戦闘艦に設置されていた。
電子妨害装置は設置されていなかったし、海軍艦船での開発計画もなかった。
※RCMとは「radar countermeasures」レーダー妨害のこと




参考文献
[a1]  Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
[y2] 米国国立公文書館
写真集・日本の空母 昭和47年3月 「丸」編集部 光人社
空母入門 1997年10月 佐藤和正 光人社
YouTube戦後の帰還兵 空母「葛城」でラバウルから帰国  
https://www.youtube.com/watch?v=NCwXiVvGbm0
YouTube【戦後73年 決して忘れない】帝国海軍 航空母艦「葛城」による復員輸送 カラー映像(1946年 空母葛城と装甲巡洋艦八雲)
https://www.youtube.com/watch?v=gXZU_P2cwCs
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』葛城 (空母)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』隼鷹 (空母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E9%B7%B9_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
北鎮海軍工廠
http://blog.livedoor.jp/hokutinkaigun/archives/55668311.html

陸軍の戦闘機嚮導装置(電波誘導機)のブロックダイヤグラムによる動作概念の解説について

電波誘導機(数機用)については、戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給から抜粋紹介する。
前述の電波誘導機は単機の誘導に限られたため、多数機の誘導のできるものが望まれ、多摩研は昭和19年から開発に着手した。
この構想は、(1)友軍機が常時発信する電波を地上数カ所の方向探知所が受信して方位を測定し、この測定諸元を超短波連絡装置を通じて中央指揮所に送る、(2)中央指揮所はこれら諸元を総合して友軍機の位置を決定するとともに、電波警戒機で測定された敵機諸元から友軍機の誘導諸元を算出する、というものであった。
本機は機上装置(タキ-30)、地上装置(タチ-28)から成り、昭和20年に試作が完成した。機上装置は三菱電機株式会社、地上装置は三菱電機株式会社(※参画していない)、富士通信機株式会社及び国際電気通信株式会社がそれぞれ担任し、また地上装置の据付工事は国際電気通信株式会社が行った。
本機は理論的には友軍機30機を同時に、また300粁の距離まで測定できるものであったが、実際に誘導できる友軍機は、設備及び運用要領の関係から5機(編隊)であった。
試作の完成した本機を運営するため、陸軍中央部は7月10日、第一電波誘導隊を新編し、第十飛行師団の編合に編入した。同師団長の命じた同隊の展開配置は「挿図第四」のとおりであったが、これら諸施設の完成をみることなく終戦になった。
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なお、陸戦兵器総覧 日本兵器工業会編では、本格的な戦闘指揮所の建設が計画され実行された。味方機の位置決定のためには、筑波、伊豆、箱根に観測所を持つ方向探知方式がとられ、その刻々の諸元は千葉県松戸の中央指揮所に集められ、自動的に位置を決定して標示盤(※タチ-15では指揮盤)に表そうというのである。同時に測定できる目標数は15(※30が正しい数値)であった。
これと警戒情報とを同時に標示して戦闘機を誘導するよう計画した。ところが、これは着手半ばにして完成をまたずに終戦になった。
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「23.昭和20年10月29日 日本陸軍省 内地陸軍航空部隊復員状況一覧表」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15011156000、「昭和20年9月以降 連合軍提出書類「復員に関する綴」 (其の1) 軍事課調査班」(防衛省防衛研究所)
終戦に伴い第一電波誘導隊は、昭和20年9月1日付けにて572名全員の復員を完了した。
合成写真636

米軍へ提出されたブロックダイヤグラムのタイトルには、Locate-Leader Outline Diagramとある。
無理やり訳せば「位置誘導装置」となるが、日本側での制式呼称は、戦闘機嚮導装置である。
なお、製造会社は地上装置が富士通信機株式会社及び国際電気通信株式会社、機上装置が三菱電機株式会社である。
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なお、この概念図だけでは全体構成を説明するのが困難であることから、方向探知所を3箇所と中央指揮所1式のイメージを提示する。実際はこのほか中継所のシステムがあるが資料がないので省略する。
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まず、2ヵ所以上の方向探知所で友軍機の信号を自動受信し、その受信信号情報とアンテナの回転位置情報(Rough PartとFine Part)及び無線電話1回線(片方向のみ)を同時に中央指揮所(中継所経由の場合もある)へ無線で自動送信する。
現代風に言えば、完全なテレメーターオンラインシステムと言っても過言ではないだろう。
中央指揮所では各方向探知所からの情報を各方向探知所単位に設置したFilter NetworkによるFDM(周波数分割多重化: Frequency Division Multiplexing)装置により各信号を分離・配信するとともに、Filter Network内で友軍機の固有信号から機体を識別し、1号機から30号機の機体番号をランプ表示する。
更に、FDM装置から切換装置(Switch Board)を経由して各指示器に表示する。
なお、切換装置(Switch Board)は各方向探知所からの無線情報を任意に切り替えることができ、2ヵ所の方向探知所からの受信データを同時運用する。
中央指揮所の指示器の表示には、方向探知所のアンテナの回転位置情報をもとに受信信号を疑似PPI表示、方向探知所のアンテナの回転状況を12分割してランプ点灯による回転位置表示、方向探知所からの電話1回線のスピーカー機能(片方通話機能のみ)の3つの指示器から構成されている。
更にもう一カ所からの方向探知所からの情報を中央指揮所の別の指示器に表示させ、2点の方向探知所からの方位情報を直交させれば、平面図上で友軍機の位置が特定できる。
ただし、Filter Network内の機体識別が同一であることが前提となるが、方向探知所のアンテナが回転することによりFilter Network内のランプ表示は刻々と変化することになる。
最後に中央指揮所の標示盤に友軍機と敵機の位置情報をランプ表示して戦闘指揮に当たることになる。
課題としては、方向探知所に対してアンテナの向きに直線上に友軍機が複数機存在すると受信電波が混信して機体識別が困難となる可能性があり30機による同時運用は相当困難であることが覗える。
なお、本システムでは友軍機の高度や距離に関する情報は取得できない。
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参考情報 海軍の戦闘指揮所の表示装置事例
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方向探知所の機能について
米軍へ提出されたブロックダイヤグラムのタイトルには、Locate-Leader(Tachi-28) Direction-Finding Officeとある。
日本側での制式呼称は、方向探知所である。
なお、製造会社は富士通信機株式会社及び国際電気通信株式会社である。
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方向探知所全体の処理概要
前提条件としは、友軍機の機上設備であるタキ-30は、190 Mc/s(Mhz)で周波数が30から60 kc(Khz)の割り当てられた周波数で変調された連続信号を発信する送信機を搭載している。
戦闘機識別信号としは、1Khz単位の30Khz、31KHZ、・・・・59Khz、60Khzの30個の固有周波数信号から何れか1つの識別信号を設定している。
ここで、方向探知所A、B、Cでは、アンテナを2回転/分で回転しながら、左右のアンテナを50サイクルの周期で交互にスイッチングしながら、友軍機が発信している識別信号を受信する。
さらに、方向探知所から送信する広帯域信号の周波数配分は、中央指揮所へ無線電話1回線(300Hzから5Khz程度)、Rough Partとして12等分時の回転位置情報(17~28 Khzの信号で表す)、Fine Partとして11Khzの正弦関数(Sin Functional out-part)信号、15Khzの余弦関数(Cos Functional out-part)信号及び13Khzの加工なしの基準信号による精密な回転位置情報、最後に190 Mc/sで周波数が30から60 kcの割り当てられた周波数で変調された音声信号を検波したものである。
これらを全て統合するためにFDM化した広帯域信号として中央指揮所(中継所経由の場合もある)へ50Mhzから65Mhzの範囲で指定された設定された周波数で送信する。
通信方式としては、周波数分割多重化(英: Frequency Division Multiplexing、略称FDM)方式である。  

(1)アンテナ系から受信機までの機能詳細について
3相200Vの交流モーターを使用して、アンテナを毎分2回転(2rpm)させている。
本機は等感度方式を採用するため、更に、アンテナは左右2つのビームアンテナから構成されており、切換装置(Switching Box)により、単相100Vの交流モーターにより50回/秒(50Hz)で左右のアンテナを切替えている。
受信機はダブルスーパーヘテロデイン方式(第一IF:18Mhz、第二IF:10Mhz)、検波、低周波増幅はUY-807Aを使用して受信信号を取出し、更に「Slip Ring」なる機構を通しアンテナで使用した切換装置(Switching Box)と同期して左右の受信信号が交互に取り出せるような仕組みを考案している。(※位相環と仕組みは同レベル)
更に、ブロックダイヤグラムには記載はないが、左右の一方には変換トランスを通過させて180度の位相反転をおこなっている。したがって、左右の受信信号の相違は180度位相が異なっている点である。
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(2)方向探知所のアンテナの回転位置簡易情報(Rough Part)の機能詳細について
3相200Vの交流モーターを使用して、アンテナを毎分2回転(2rpm)させている。
Rough Partとして360度を12等分の角度に分割して回転位置情報として、17~28 Khzの周波数の信号として生成する。
例えば、0時が17Khz、1時が18Khz、・・・・10時が27Khz、11時が28Khzの周波数配分を行っていると仮定する。
この情報を遠隔地の中央指揮所へ伝送し、その使用周波数を解析すれば、方向探知所のアンテナの回転方向を大まかに把握することができる。
このため、回転するアンテナの支柱に螺旋状かつ等間隔に、回路スイッチの起動となる12本のピンを用意して、アンテナの支柱が回転しピンに接触したタイミングで、該当周波数の発振回路が起動することになる。
発振回路は固定コイルと該当発振周波数定数となるコンデンサーの組合せを12個用意している。
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(3)方向探知所のアンテナの回転位置詳細情報(Fine Part)の機能詳細について
Fine Partとして11Khzの正弦関数(Sin Functional out-part)信号、15Khzの余弦関数(Cos Functional out-part)信号及び13Khzの加工なしの基準信号を生成する。 
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また、3相200Vの交流モーターを使用して、アンテナを毎分2回転(2rpm)させているが、更に精度向上のため変速ギヤーを介して、24回転/分の単位で精密な回転位置情報を生成している。
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なお、回転角度をθとすれば、sinθ、cosθの関数回路を用意することになるが、このθに該当する角度変化についてはブロックダイヤグラムではアンテナ支柱に可変コンデンサーが明記されているので、支柱の回転に同期して可変コンデンサーがθ分変化する何らかの関数回路が用意されたことを意味するが、実際使用された回路に関する情報はない。
基本的には、回転角度をθに比例した位相調整器といった方が正確な表現である。
使用真空管
 B-7


中央指揮所の機能について
米軍へ提出されたブロックダイヤグラムのタイトルには、Locate-Leader(Tachi-28) Measuring Parts (Central-Leading Office)とある。
日本側での制式呼称は、中央指揮所である。
なお、製造会社は富士通信機株式会社及び国際電気通信株式会社である。
 c-1

中央指揮所全体の処理概要
中央指揮所では各方向探知所からの情報を各方向探知所単位に設置したFilter NetworkによるFDM装置により各種信号を分離・配信するとともに、Filter Network内で友軍機の固有信号から機体識別し、1号機から30号機の機体番号をランプ表示する。
更に、FDM装置から切換装置(Switch Board)を経由して各指示器に表示する。
なお、切換装置(Switch Board)は各方向探知所からの無線情報を任意に切り替えることができ、2ヵ所の方向探知所からの受信データを同時運用する。
中央指揮所の指示器の表示には、方向探知所のアンテナの回転位置情報をもとに受信信号を疑似PPI表示、方向探知所のアンテナの回転状況を12分割してランプ点灯による回転位置表示、方向探知所からの電話1回線のスピーカー機能(片方通話機能のみ)の3つの指示器から構成されている。
更にもう一カ所からの方向探知所からの情報を中央指揮所の別の指示器に表示させ、2点の方向探知所からの方位情報を直交させれば、友軍機の位置が特定できる。
ただし、Filter Network内の機体識別が同一であることが前提となるが、方向探知所のアンテナが回転することによりFilter Network内のランプ表示は刻々と変化することになる。
最後に中央指揮所の標示盤に友軍機と敵機の位置情報をランプ表示して戦闘指揮に当たることになる。

(1)方向探知所のアンテナの回転位置簡易情報(Rough Part)の機能詳細について
Rough Partとして360度を12等分の角度に分割して回転位置情報として、17~28 Khzの周波数の信号として生成する。
例えば、0時が17Khz、1時が18Khz、・・・・10時が27Khz、11時が28Khzの周波数配分を行っていると仮定する。
なお、表示用のネオン管の配置は、時計の0時から11時と同様に円周に配置し、点灯と方向が一目でわかるような仕組みとなっている。
ネオン菅表示方式としては、17Khzから28Khzの12個のLCによるネオン菅を付属した直列共振回路を通過することにより、該当の周波数に一致し共振するとネオン菅が点灯する。
このネオン管点灯により、方向探知所の現在のアンテナ回転位置が大雑把に把握することができる。
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(2)方向探知所のアンテナの回転位置詳細情報(Fine Part)の機能詳細について
この方式を実現するため国際電気通信株式会社の技術者は、ゴニオメーター(セルシン変圧器と同じ意味)の代わりに、11Khzの正弦関数(Sin Functional out-part)回路による信号、15Khzの余弦関数(Cos Functional out-part)回路による信号及び13Khzの加工なしの基準信号の3つの信号を用意した。
回転角度をθとすれば、sinθ、cosθの関数回路を用意することになるが、このθに該当する角度変化についてはブロックダイヤグラムではアンテナ支柱に可変コンデンサーが明記されているので、支柱の回転に同期して可変コンデンサーがθ分変化する何らかの関数回路が用意されたことを意味する。
平面図で表現すると、X軸に11Khzのsinθ、Y軸が15Khzのcosθの値に直交した平面図面の点をアドレッシングすることを意味する。
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ゴニオメーターと本方式による信号とのアドレッシングの相違について
ゴニオメーター(セルシン変圧器と同じ意味)は1つの回転子と2つの互いに直交した固定子コイルを持っており、その関係は、もし回転子コイルに電圧を加えた時に、いずれか一方の固定しコイルに誘起する電圧が、回転子コイルの軸と、着目している固定しコイルの軸となす角の余弦に比例するようになっている。したがって、他方の固定子の誘起電圧は上記の角の正弦に比例するわけである。
図に示す接続では、陰極線管の水平および垂直偏向コイルで生じる偏向力は、それぞれcosθ及びsinθに比例する。したがって合成磁界の大きさは一定でθに無関係であるが、基準軸に対してこの角だけ傾いている。
そこで必要な大きさの偏向電流を回転子に流してやり、空中線と同期して回転子を回転すれば、PPI表示に必要な回転時間軸掃引が得られる。
同時に輝度変調として、ブラウン管のG1に受信機からの受信信号を印加すれば、ゴニオメーターでPPI表示に必要な回転時間軸掃引が行われることにより、受信信号とブラウン管表示域のアドレッシングが完結することになる。
 c-4

しかしながら、本システムのように方向探知所の情報を遠隔地である中央指揮所でPPI表示するためには、アンテナの回転情報とブラウン管の回転時間軸が同期する必要があるが、ゴニオメーター(セルシン変圧器と同じ意味)を用いると遠隔地間では同期を物理的にとることは不可能である。
このためには、回転情報を何らかの電子情報で共有するシステムが必要となる。
このため国際電気通信株式会社の技術者は、ゴニオメーター(セルシン変圧器と同じ意味)の代わりに、11Khzの正弦関数(Sin Functional out-part)回路による信号、15Khzの余弦関数(Cos Functional out-part)回路による信号及び13Khzの加工なしの基準信号の3つの信号を用意している。
なお、回転角度をθとすれば、sinθ、cosθの関数回路を用意することになるが、このθに該当する角度変化についてはブロックダイヤグラムではアンテナ支柱に可変コンデンサーが明記されているので、支柱の回転に同期して可変コンデンサーがθ分変化する何らかの関数回路が用意されたことを意味するが、実際使用された回路に関する情報はない。
平面図で表現すると、X軸に11Khzのsinθ、Y軸が15Khzのcosθの値に直交した平面図運の点をアドレッシングすることを意味する。
したがって、ゴニオメーターによる回転時間軸掃引によるPPI表示と比較すれば、掃引自体の機能がないことから単一円状の疑似PPI表示しかできない限定機能となることから、便宜上、疑似PPI表示と呼ぶこととした。
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方向探知所から送信された方向探知所のアンテナの回転位置詳細情報(Fine Part)は、11Khzの正弦関数(Sin Functional out-part)回路による信号、15Khzの余弦関数(Cos Functional out-part)回路による信号及び13Khzの加工なしの基準信号の3つの信号である。
中央指揮所では、この3つの信号を「基準信号+sinθ信号」と、「基準信号+cosθ信号」として両波整流(KX-80)して直流信号に変換し、【基準信号+sinθ信号】をブラウン管平面のX軸、【基準信号+cosθ信号】をY軸の直流信号電圧として印加することにより、このベクトルデータである直交点がブラウン管の表示アドレスとなる。
このためには、絶対平面軸を決定するためには、基準信号が必要であることがよくわかる。
この状態で、ブラウン管の第一グリッドに、受信機からの受信信号を入力する。
受信信号に関しては、方向探知所の等感度方式のため50Hzで左右のアンテナが交互に切換え、これに同期して受信信号も左右の受信信号が交互に切換え出力されるとともに一方の受信信号は位相反転する加工がなされている。
このため、ブラウン管へはX軸とY軸が直交した位置へこの受信信号を印加することなる。
受信信号は交互に位相反転されたデータであることから、左右の受信信号は下図のかたちのような上下信号で表示されることになる。
通常、射撃管制レーダーで用いられている等感度方式は、操作員による手動にて方位や高度を反射バルスの高低を一致させることにより方位や高度が精密に測定できる。
一方、本機の戦闘機嚮導装置(電波誘導機)ではアンテナが自動的に回転する情報を取扱っており、手動操作を行うことができない。
したがって、中央指揮所の監視員は、このブラウン管の画面を常時監視して上下の受信信号レベルが一致した方位位置を即座に判断・記録する必要がある。
しかも、複数の友軍が上空に存在すれば、常に機体識別が一致していることも確認する必要がある。 
なお、方向探知所のビームアンテナの性能は30度幅のものであることから、これを一度に受信信号として取り込みブラウン管に表示している。
 c-6

使用真空管
 C-7


戦闘機嚮導装置(機上装置)タキ-30
米軍へ提出されたブロックダイヤグラムのタイトルには、Locate-Leader(Taki-30) Aviation Partとある。
日本側での制式呼称は、戦闘機嚮導装置(機上装置)タキ-30である。
なお、製造会社は三菱電機株式会社である。
技術的特徴:
送信機 f = 190 MC/S CW 20 W 変調 f = 30-60 kc/s(1 kc/s のステップ)非指向性
製造数 = 50。設置数 = テスト用にわずか
概要:
タキ-30は、迎撃機に搭載された小型送信機で、地上システム(タチ-28)に正確な位置を示すために使用される。30から60 kcの範囲で1 kcのステップで選択される信号によって変調された190 MC/Sの連続信号を送信する。したがって、異なる変調周波数を持つ30の異なる航空機を同時に個別に制御することができる。
 d-1

使用真空管
 D-2

A short survey of japanese radar  Volume2からの抜粋
タチ - 28
迎撃戦闘指揮装置(国際電気株式会社;タチ28号戦闘機嚮導装置)
連合軍の対応名称: ——
技術的特徴:
f = 190 MC/S 範囲300キロメートル 信号中継f = 50-66 MC/S。8ワット
製造数= 1。設置数= 1(テスト中)
説明:
タチ-28は完全な地上設備システムの名前である(関連する航空機搭載設備はタキ-30である)。このシステムは、最大30機の独立制御航空機の現在位置に関する合理的に正確なデータを提供する。制御される各航空機は、190 Mc/sで周波数が30から60 kcの割り当てられた周波数で変調された連続信号を発信する送信機(タキ-30)を搭載している。約50マイル間隔で配置された2つ以上のDF(方向探知器)ステーションが信号を受信する。それぞれのアンテナは定速で2回転/分で回転し、50サイクルのローブ切り換えによって2つの最大値とその間の鋭い最小値を持つ水平パターンになるように配置されている。

各DF 局によって受信されたコンポジット信号 (30 ~ 60 kc のトーンの混合) は、特別な 5 メートルのリンクで制御局に無線送信される。 航空機の最低信号周波数 (0 ~ 30 kc) より下の領域では、音声チャネルと方位信号が送信される。 後者はDF アンテナの位置を示し、2 つの部分に分かれている。1 つは細かいデータの場合、連続的に変化し、30 度ごとに繰り返される。 もう 1 つは粗いデータの場合、12 ステップで変化する。 中央局では、粗い方位信号が 12 個のネオン ランプの 1 つを点灯し、細かい方位信号がブラウン管のスポットの位置を決め、DFアンテナの 30 度の移動ごとに円を通過させる。 観察されている特定の面の信号がフィルターによって選択され、陰極線管上に放射状に表示される。DF アンテナのダブルローブ パターンのため、観測される図は、「制御主導局」の図の範囲に示されているものと同様になる。 図の中央の最小値は、平面の方位角にある。 飛行機の位置を特定するオペレーターは、そのようなスコープを 2 つ、外側の 2 つのDF ステーションにそれぞれ 1 つずつ、目の前に置いている。 両方のステーションのデータから、彼は飛行機の位置を非常に正確に特定できる。 他のオペレーターは同じ方位信号を使用するが、異なる航空機信号を選択する。

このシステムは、大量のデータを瞬時に遠隔表示するという点で興味深いものである。30機の航空機ごとに1分間に2回のDF出力がある。これはGCI(地上管制指揮)用に意図されており、東京地域に大規模なシステムが設置されていた。中央ステーションは松戸にあり、最初のDFステーションは東京の東と南にそれぞれ50マイル離れた銚子と白浜に配置されていた。一部の場合では、5メートルの無線リンクで中継ステーションが使用される予定でした。この大規模なプロジェクトは戦争の終結によって中断されました。
f-1 (1)

f-1 (2)

f-1 (3)

f-1 (4)

f-1 (5)

 
タキ-30
迎撃戦闘指揮装置(機上装置)- AVIATE PARIS(?)
連合軍の対応名称:
技術的特徴:
送信機 f = 190 MC/S CW 20 W 変調 f = 30-60 kc/s(1 kc/s のステップ)非指向性
製造数 = 50。設置数 = テスト用にわずか
説明:
タキ-30は、迎撃機に搭載された小型送信機で、地上システム(タチ-28)に正確な位置を示すために使用される。30から60 kcの範囲で1 kcのステップで選択される信号によって変調された190 MC/Sの連続信号を送信する。したがって、異なる変調周波数を持つ30の異なる航空機を同時に個別に制御することができる。
f-1 (6)

 
タチ-36
諸元算定装置(防衛-攻撃-計算および送信装置の命令装置)
連合軍の対応名称: -—
技術的特徴:
計算の精度: 方位、±2°;距離、±(30秒×巡航速度)
送信の精度: 方位、±5°;距離、±200メートル;高度、±500メートル
製造数 = テスト中の1機。設置数 = 1機
説明:
タチ-36は、敵機および味方機の現在の進路と速度が入力された最初の電気計算装置である。そこから、味方機が迎撃を実施するために飛ぶべき適切な進路と、その地点までの飛行距離も示される。タチ-36の残りの部分は、操作者が正しい進路(方位角)、まだ残っている距離(距離)、および降下する高度を設定するための制御装置を備えた送信機である。これらの3つのデータは、回転するコンタクターの3つのセクターを通じて送信される。各コンタクトは、異なる低音周波数を変調した無線送信機に関連付けられている。飛行機には、チューニングされたリードを持つ対応する回転装置も取り付けられており、復調された無線周波数を運ぶ回転電磁石が適切なチューニングされたリードを通過すると、後者は激しい振動を起こす。これらは、適切な進路、距離、および高度のスケールで表示されているため、パイロットは一目で次に適切な動作を判断することができる。回転する要素は、各回転の開始時に1秒ごとに送られる同期信号によって同期される。
 f-1 (7)


f-1 (8)


【総合コメント】
・A short survey of japanese radar  VolumeⅠからの抜粋
日本レーダー概論 第1巻
12. 日本の防空システム 
日本の防空システムは、地上観測機とA型およびB型レーダーの精巧な組み合わせであった。そのせいもあって、扱いにくく、機能するのに時間がかかった。驚くほど複雑な戦闘機管制センターのある機能は、優れた発想で作られていた。乱雑な台を使わずに、レーダー情報を照明付きの格子状の地図上に表示するのは良かった。しかし、同様に重要な地上監視員の報告は、別の場所に、まったく異なる表示形態で表示されていた。普通の人間の管制官が、大規模な空襲中に届くすべての情報を頭の中で調整し、フィルターにかけるのは不可能に違いなかった。
ほとんどの場合、1時間以上の早期警戒が可能であったにもかかわらず、B-29の到着に合わせて戦闘機が迎撃に有利な位置につけるよう適切に指示できるシステムはほとんどなかったようだ。陸軍と海軍の情報センター間の連絡は非常に不十分だったようだ。2つの早期警戒システムを統合し、すべての放送局がその地域の単一の情報センターに報告するようにすれば、長い前進となっただろう。そうすれば、経費も混乱も半分で、完全な情報が得られただろう。さらに、AAレーダーシステムからのデータを使用する際、ラウドスピーカーから入ってくるデータを第3のディスプレイの位置にプロットするという問題があった。連合軍のインフォメーションセンター設計者は、時折、手の込んだ提案で少々暴走しているように見えた。日本軍に比べればお粗末なものだ。
*米国の戦略爆撃調査団がこのような調査を行っている。
【コメント】
A型およびB型レーダーとは、陸軍電波警戒機甲と電波警戒機乙のことである。
また、「驚くほど複雑な戦闘機管制センター」とは、陸軍の戦闘機嚮導装置(電波誘導機)のことを指していると思われる。
最後に、日本側の戦闘機嚮導装置(電波誘導機)を評価している表現で終わっているが、A short survey of japanese radar  VolumeⅠ以降の資料ではこのような評価した文面は意識的に削除されている。

・国際電気通信株式会社の開発の発想とその実現手段について
陸軍の多摩研究所では大まかな要求仕様を描き、メーカーで具体的な研究・開発・製造をしてもらう手法が一般的である。
このため、開発にはメーカー選定が重要の要素となるが、昭和19年度において大手開発メーカーの東芝、日本電気、日本無線には電波兵器であるレーダー開発で余力がないことから、新たな大規模システムである戦闘機嚮導装置(電波誘導機)の開発に国際電気通信株式会社に白羽の矢が当たったようだ。
今の日本では「国際電気通信株式会社」といってもご存じの方は少ないでしょうが、当時通信業界の最大のコングリマリッドであり、レーダー開発技術には当然知見はないが、戦闘機嚮導装置(電波誘導機)に関しては、自社の既設開発・製造技術を生かしたシステム開発を行い、確実に実現できる実用システムの開発・製造・設置工事を行い、昭和20年度には初期システムを稼働させており、中央指揮所は松戸にあり、最初の方向探知所(DF局)は東京の東と南にそれぞれ50マイル離れた銚子と白浜に配置されて実戦に向けて準備中であった。
なお、富士通信機株式会社も当プロジェクト開発に参画しているが、この当時では補助的な作業に終始したものと思われる。
ここでいう既存技術としては、昭和16年には携帯型(可搬型の意味)超短波多重電話装置(送信機出力10W、72Mc、水晶制御陽極変調方式)を完成し、朝鮮海峡直通の実験を行っており、見通外でも電界強度充分なることを確認している。
また、電話局関係では、6通話路搬送電話端局装置を製造している。
この2つの開発技術を組み合わせれば、方位探知所と中央指揮所の基本システムを構築できるし、方位探知所と中央指揮所間に中継所を設け確実に通信が行われるような思想は逓信院の通信業務の安定運用を基盤とした考え方を基礎としたネットワーク設計と思われる。
唯一、特異なのは疑似PPI表示方式の開発・設計であるが、大変発想の優れた人でないと開発できないような高度の応用技術であり、これにより世界初の「テレメーターオンラインシステム」が完成したといっても過言ではないだろう。
 e-1


・戦闘機誘導装置に関する海軍との関係について
戦闘機誘導装置については、陸海軍電波技術委員会に於いて、陸軍担当と定められているにも係わらず、結局陸軍と海軍で別々のシステムを構築することとなった。
航空機に敵味方識別装置の開発の是非は両者とも理解しているのだが、陸海軍とも統一した設計インターフェースを作ることができなかった。
このため、陸海軍として一体化した戦闘機誘導装置を構築することができなかったことが実態のようである。
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会からの抜粋
海軍の戦闘機誘導装置
本問題は陸海軍電波技術委員会に於いて、陸軍担当と定められていたものであるが、海陸両軍の飛行機性能の差異と、防御受持区域の相違とから、海軍に於いても本問題の解決を必要とするに至り、横須賀鎮守府を中心とした、B-29邀撃に関する特別委員会が組織され、検討の結果、対敵測定用としては、波長六米の電波を使用する一号電波探信儀四型を用い、敵機を洋上遠方に捕捉し、波長三米の電波を使用する一号電波探信儀一型を、等感度方式に改造したもので(が六三号電波探信儀・浜六三)、これを追尾し、近距離となれば波長六〇糎を用いた六一号電波探信儀(略称S8B、二号電波探信儀三型の反射鏡を直径七米に改造したもの)を以て、距離(最大探知距離一三〇粁、標定距離三五粁、測距誤差正負二〇〇米)及び高度(測角精度上下三度、最低仰角三度)を計測し、これを計算機に入れて、敵機の高度及び進路を算出する。又味方機測定としては波長二米の電波を用いた六二号電波探信儀(浜六二、一号電波探信儀三型を等感度方式に改造したもの)に依って呼び掛け、機上の味方識別装置からの応答電波に依りその位置を知り、高度は機上からの通報に依り、これらの資料から敵味方の会合点を求める方式であった。
急遽整備の要求に依り、既製兵器を改造し、昭和二十年三月第一号装置の装備を完了し、実目標(敵機)に対する訓練を実施した。
しかし戦況の切迫はそれ以上大規模に実施する能わず、量産に移らなかった。

・国際電気通信株式会社の終焉とその後
今の日本では「国際電気通信株式会社」といってもご存じの方は少ないでしょうが、当時通信業界の最大のコングリマリッドであり、最後まで軍需生産へ積極的に関与しなかった稀有の会社であるにもかかわらず、戦後GHQにより国際電気通信株式会社のみ解散命令が下されたという歴史のため、今日では世間から忘れられた存在となってしまった。
この解散命令を受けて、国際電気通信株式会社は最後の社史を発刊するが、その内容な社史というよりも歴史に残しておくべき重要な通信技術マニュアルそのものであった。
ただし、戦闘機嚮導装置に関しては、社史では、たった3行で簡素な内容に終始していた。
<太平洋戦争中陸軍の委託研究によるもので、関東地方防空設備の一貫としての味方戦闘機の嚮導装置、地上指揮伝達装置を含む膨大な研究であって部分的には完成したものもあるが、全体としては纏まらず終戦となった。>

GHQの解散命令書
 e-2

国際電気通信株式会社のその後
1947年(昭和22年) - 国際電気通信株式会社のGHQ指令による解散。国際電気通信株式会社法廃止。
1947年(昭和22年) - 国際電気通信株式会社の施設(一部を除く)・業務・職員は逓信省に移管。
1948年(昭和23年) - 国際電気通信株式会社狛江工場は電元工業株式会社(現:新電元工業株式会社)となり、翌年独立し国際電気株式会社となる。
なお、奇遇にもホットニュースであるが、日立国際電気が2018年に分社して設立した半導体製造装置メーカーのKOKUSAI ELECTRIC(東京・千代田)が2023年10月25日東京証券取引所に上場した。初値で換算した時価総額は約4800億円。国内では今年最大の新規株式公開(IPO)で、2018年のソフトバンク(7兆円)以来の規模となったとのことである。
国際電気株式会社の製品事例
 e-3


・電電公社秋草副総裁との関係
国際電気通信株式会社の社史の編纂には、執筆者として秋草篤二氏の名があった。
個人的なことで恐縮なのですが、実は小生が昭和49年電電公社に入社した時の副総裁が秋草篤二氏であった。
国際電気通信株式会社に籍を置いていた同氏達は、昭和22年には国際電気通信株式会社の施設(一部を除く)・業務・職員は逓信省に移管されている。
このことからも国際電気通信株式会社の存在価値の重要性がよく分かる。
同氏は逓信省、電気通信省(1年のみ存続)、日本電電話公社に所属することになった。
なお、国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)により1953年に日本電信電話公社より分離独立し設立された。




参考文献
Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radar, 1 April 1946
「日本無線史」9巻 1951年 電波管理委員会
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
続日本無線史<第一部> 昭和47年2月
戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給 防衛庁防衛研修所戦史室著 昭和50年8月
陸戦兵器総覧 日本兵器工業会編 1977年3月
A short survey of japanese radar Volume 2 1945年11月20日
国際電気通信株式会社社史(1949年発行)
森村喬さんの思い出
https://www.icom.co.jp/personal/beacon/ham_life/ja1lkj/5424/
丸2006年10月号 潮書房

海防艦「占守」の無線兵装について
海防艦「占守」電探室異状なし(北村栄作 1990年6月 光人社)を読んで以前から気になって居たところを、今回手持ち資料とネットの力で整理してみました。
まずは海防艦「占守」のことを今まで恥ずかしながら“せんしゅ”との読みと思い込んでいました。
海防艦の艦名の付与は、本邦の島からとっており、占守島から命名されています。
今回の調査で占守は、“せんしゅ”ではなく、“しむしゅ”と呼ぶことが判明しましたが、戦後生まれの方ではこれを読むことが出来る方は大変歴史通の方ではないでしょうか。
それでは、本邦内の占守島はいったいどこにあるのでしょうか。
正解は千島列島北東端の島で、敗戦後ロシアの実効支配下にあります。
 a-1 (1)

海防艦「占守」の艦型概観
 a-1 (2)

占守竣工時(レーダーなし)
 a-1 (4)

戦後の占守(引揚船用に改造、22号レーダーあり)
 a-1 (5)

「占守」はその後も引揚船として、武器は全部とりはずされ、甲板上に木製のデッキを急造して、五、六百人くらい乗艦できるように改造した。
そして、南方の島々に残留の旧陸軍部隊の復員艦として涙の汗を流し活躍したが、昭和22年7月に賠償艦としてソ連に引き渡された。


海防艦(新型)の無線兵装(日本無線史抜粋)
海防艦は従来一般に老杆艦を以て当てられていたが、対潜警戒、海上警備の重要性あり、新艦の建造が計画せられ、昭和15年まず4隻の完成を見た。
無線兵装は送信機は短3号、長波4号各1台と2号電話及び超短波電話機各1台、受信機は4台程度で、小型艦の割合に大勢力送信機を搭載し、前後楼間の距離又極めて短いため、自艦送信妨害の問題と、能率良き空中線展張の問題で、装備上色々苦心が払われた。
太平洋戦争中期以後は護衛艦としての整備に重点が置かれるようになり、対飛行機協同用電話機及び応急用小型電信機の増補が積極的に行われた。
又任務の変化に伴い、艦型は縮小の一途を辿り、短波送信機も特5号送信機に換装せられた。
その結果自艦送信妨害は大いに緩和せられた。

搭載無線機の概要
YT式短3号
出力1KWの自励式短波送信機であるが、明昭電機株式会社の製作にかかるものである。
使用周波数 4,000 ~ 15,000Kc
構成は、原振、増幅方式の電信専用である。
使用真空管は、発振器UX-202A、増幅菅UV-814、12号発振(UX-860)、電力増幅UV-812、整流菅HV-972、KN-158、HX-966である。
※ 東洋無線電信電話株式会社と明昭電機株式会社は姉妹会社であるが、両会社は昭和13年11月に合併して、資本金400万円なる東洋通信機株式会社となった。
同社製一連の無線機は“YT式”と呼称された。

長波4号
概要
自励連結式の所謂簡単式長波送信機(3号は出力1KW、4号は出力0.5KW)で優秀品とは云えないが、十年以上も使い慣れたもので艦船及び陸上に装備されて実用されている。
92式4号送信機  出力500Kw 自励

特5号送信機
長波、短波兼用送信機の特徴を生かして、電波特に短波の安定性を向上した兵器の要望があったので、これに応えて完成したものが本機である。
本機は長波は91式特送信機と同じく、単なる自励発振型送信機であるが、短波は原振器附になっており、駆潜艇その他小型水上艦艇に装備された。
97式特5号送信機  出力150w

2号無線電話機
中波無線電話機で、出力30W、送話機改1は翼板電圧を500Vより1000Vに増大したもの、送話機改2は自励式で電信は空中線電鍵操作のもの、同改3は格子電鍵操作に改良したもの、受話機改1は高周波増幅1段、再生式検波、低周波増幅2段のもの、同改2は周波数範囲を拡大したもの、送話機改3に原振器を附けたものを送話機1型と呼ぶ。
ilovepdf_merged_page-0001-99-999


追加工事
2号2型電波探信儀

艦戦無線兵装標準(昭和18年6月の改訂版)
甲海防艦
送信機   短波4号(1/2kw)1台
短波7号     1台
中波5号(1/4kw)1台
2号電話機 1台・・・・・・・・・・・・・・・・・・実用品ではなく運用に難あり
隊内電話機(機上用)1台・・・・・・・・・・・・・・実際は配備されていない
受信機   長短兼用受信機(92式特受信機)  3台
同上 水晶制御式(3式特受信機) 1台 ・未配備可能性あり
電波探信儀 対飛行機用(1号3型)2台・・・・・・・末期の海防艦にのみ設置
      対水上艦用(2号2型)1台
電波探知機 米波用 1台・・・・・・・・・・・・・・米国側で使用していない波長
      糎波用 1台


92式特受信機の概観
 c-1 (1)


隊内電話機(機上用)の捕捉説明
.艦船並びに一般通信(海軍通信作戦史抜粋)
(ロ)護衛艦艇の隊内電話に航空機用隊内電話を採用し水上艦艇、航空機共同一電波使用に統一す。
昭和19年秋迄の護衛艦艇は未だ海防艦、駆逐艦等の編成なく個々の艦艇の寄せ集め式護衛船団にして、且1月の中殆碇泊休養の時間も少ない為、教育訓練の機も尠く思想の統一もなき為、之等船団部隊に於いては90式超短波及び2号電話機の如き電波の漂変甚しき電話は隊内電話として取扱困難であったので、取扱容易なる水晶制御式航空機用隊内電話を使用せしむることとし、極く一部の特設艇を除き之を装備し且護衛部隊の隊内電波を水上艦艇及び航空機共41350kcに統一し航空機との緊密なる連絡に資した。
右電話は之を重要船団にも装備せんとし、電話員の養成を開始したが、時恰も米軍沖縄作戦を開始し、南方よりの還送航路を遮断せるを以て実現に至らずして終わった。
※ 98式空4号隊内無線電話機
 c-1 (4)

2号2型電波探信儀の概観
c-1 (5)

1号3型電波探信儀の概観
 c-1 (6)

1号3型電波探信儀の搭載参考事例
海防艦(丙型)第225号は昭和20年5月に竣工した。後楼13号レーダーを装備するためマストの高さも増し、三脚楼の形状も異なっている。
 d-1

電波探知機 糎波用
 d-3


“海防艦「占守(しむしゅ)」電探室異状なし”から関連項目を抜粋し紹介します。
「占守」は排水量1020トン、全長78m、最大幅9.1m、喫水3.05mの小型艦ながら、艤装、構造ともにこったものであり、建造時には軍艦ということで船首には菊の御紋章がかがやき、外観も風格を備え、艦長室の造作も、他の艦とかけはなれた立派なものだった。
艦橋塔は3層になっており、1層目に通信室、2層目に海図室、電探室、3層目が艦橋となっており、その後部が旗甲板で、上部には3mの測距儀が装備されていた。
上甲板全部には艦長室と士官室があり、兵員室は下甲板前・後部が当てられ、荒天通路に接して烹炊所、医務室、浴室などがあり、中部最下甲板は機関室で、デーゼル機関2基、発電機があった。
6m内火艇1隻、カッター2隻、通船1隻がそれぞれ両舷に搭載され、前檣に電探のラッパ管、その後部に探照灯などが設けてあった。
・・・・・・・・・
22号電探は、電気的振動を発振・増幅されて、それを電波にかえて檣楼(しょうろう)にあるラッパ管内の送信アンテナより発信する。
波長8cm(誤記で実際は10cm)といわれる極超短波は光のように直進して、物体に当たると、山ビコと同じ原理で、ハネ帰ってくる特性を利用し、受信用のラッパ管内のアンテナで受けて、ブラウン管に映し出す。
その波型で距離、ラッパ管の奉公で物体の方位を知るものである。
このため、発振器・増幅器・整流器・送信器・受信器・受像器など、20もの機械があり、電探室は足の踏み場もない。
それらの器械には、今日のようなICも半導体もない。
すべて真空管・抵抗体で、その種類も何十種類、数も百ちかく、機内は電線が縦横に走っている。
機械を作動すると真空管に火がともり、それから発する熱気で、頭が痛くなってくるしまつ。
そして無理な作動を繰り返すと、真空管や抵抗体が「ボー」と燃え切ってしまうといった具合で、まったくむりがきかない。
・・・・・・・・・・
「占守」は僚艦とともに商船を護衛し、占守島の片岡湾をめざして大湊を出港した。
水中探信儀、電波探知機の性能を発揮し、見えない島嶼あるいは海底の起伏を精測して艦位の測定に大きい役割を果たした。
艦長はとっさの敵潜にそなえ、防寒服をまとって、つねに艦橋の椅子に待機していた。
目的地に着くという前夜、電波探知機のブラウン管に味方艦艇以外に、1隻の映像を右30度、距離5000mに発見、直ちに艦橋に報告する。
・・・・・・・・・・・
「占守」はその後も引揚船として、武器は全部とりはずされ、甲板上に木製のデッキを急造して、五、六百人くらい乗艦できるように改造した。
そして、南方の島々に残留の旧陸軍部隊の復員艦として涙の汗を流し活躍したが、昭和22年7月に賠償艦としてソ連に引き渡された。


結言
占守は海防艦(甲型)の一番艦として、昭和15年6月に三井玉野造船所で竣工しました。
昭和16年12月にマレー上陸の陸軍輸送船の護衛をはじめ、その後ビルマ方面等の船団護衛に従事してまいりました。
昭和19年11月にマニラ湾南方で雷撃を受け損傷するも昭和20年8月北海道方面で終戦を迎えるこことなりました。
昭和20年10月除籍後、復員輸送艦となり、昭和22年7月賠償艦としてソ連に引き渡されました。
海防艦の一番艦として従軍し負傷しながらも終戦を迎え、戦後も外地からの復員輸送に従事しつつ、その後は責任を取って戦勝国へ賠償として引き渡れ、その外地で必死に働きかつ当地にて最後に死すといったところでしょうか。
海上自衛隊でも海上保安庁でもいいですが、小型艦で結構ですが、是非、新造艦に「占守」の命名をしてもらえれば、海防艦「占守」のことを後世に伝えることができるでしょう。
決してソ連の行為を含め過去の歴史を忘れてはいけません。




参考文献
海防艦「占守(しむしゅ)」電探室異状なし 北村栄作 1990年6月 光人社
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
海軍通信作戦史 昭和24年3月 第二復員局残務処理部史実班
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
丸スペシャル 海防艦 1979年6月 潮書房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』占守島、占守型海防艦
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海軍技術研究所・電波研究部におけるA研究及びB研究に関する考察について

昭和19年2月14日大臣巡視時の海軍技術研究所電波研究部の組織を見ると、第一科(担当:菊池正士)A研究及びB研究とあるが、終戦時にはA研究のみとなっている。
a-1


A研究に関する資料を引用すると以下のとおりである。
資料1  Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan E-12
終戦時の第二海軍技術廠の組織体制について
第1班: マグネトロン管に関する研究
昭和19年、センチメートル波のレーダーへの応用が極めて重要であることから、マグネトロン管に関する基礎的問題を研究するため、静岡県島田町に研究室を設置した。 この研究は順調に進み、マグネトロン発振の理論的なメカニズムを明らかにしたが、この戦争には間に合わなかった。
第2班:  "A "装置の研究
センチメートル波の応用として、無線制御による起爆装置の点火方法が研究されていた。 高射砲弾の中に適当なアンテナと起爆装置を設置し、地上から放射される鋭い指向性のセンチ波によるアンテナ電流で砲弾を爆発させることができるのである。 
アンテナ電流で直接爆発を起こすには、送信電力が極めて大きくなければならない。 そこで、強力な発振器の製作に力が注がれた。 10〜20センチメートル波で50キロワットの入力の発振器が完成し、テストに入ったところである。 このため、鋭いビーム波が得られるはずの直径10メートルのパラボラアンテナで、実際の試験を行う段階まで来ていた。

資料2 日本レーダー小史 第Ⅰ巻
3.海軍の電子研究
自軍の砲弾をあらかじめ決められた位置や高度で爆発させることを提案した「"A"装置」のテストも含まれている。
彼らの失敗は「適切な受信装置の不足」によるものでした。
ただし、彼らは 1944 年に連続 20 センチメートル波長で 10 キロワットの連続出力を生成することに成功した。
最新のマグネトロンの研究では、2.7 cm で 1.5 キロワットのパルス出力と、0.7 cm で「かろうじて観測可能な」出力を得る真空管が生産された。
表に示されているように、各セットの改善や代替品の開発のためのプロジェクトを追うことで、彼らのレーダー開発の進展の歴史を知ることができる

資料3 「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
電波信管
電波を利用し従来の高角砲弾の信管誤差0.1秒を0.01秒程度に短縮せしめんとするものが電波信管の目的とするところである。
研究方針としては
(1)第一段として一二糎高角砲を使用し、地上管制に依り起爆させることとし、砲弾中には、受信器及び起爆装置を持たせると共に、砲弾飛翔時の位置通報器をも併せ考えることにする。使用電波は米波とする。
(2)第二段としては砲弾に送受信器を装備し、反射波に依り自動的に起爆する方式を完成する。
(3)別に島田実験所に於て糎波を使用し、研究を進める。
又これと別個に、大型機編隊に対する小型機の攻撃法として、襲撃機が投下した爆弾を味方機の電波輻射に依り起爆さすことも計画された。
以上の各研究はいずれも、実験途中で終戦となった。

資料4「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
第5項 電波信管
1.地上管制用
対空射撃の命中率を高めるために信管作動時期を弾丸の到達時に正中させたいとの要望が、昭和20年の1月に提起され、艦政本部第一部主導の下に技術研究所とこれに連なる部外研究陣とが協力してこの研究に当たった。
その方法として、次の3つの方法が考えられた。
(1)12糎高角砲弾の信管を地上から管制し起爆させる。使用周波数はメートル波とし、この場合、砲弾に受信機と起爆装置と位置通報器を内蔵させる。
(2)砲弾に送受信機を内蔵させ、目標からの反射波で至近距離に入ったところで自動的に起爆するようにする。
(3)前2者とは別に島田実験所でセンチ波利用の研究を進める。
右のうち、(2)の方式は「近接信管」として戦争中に米軍が開発に成功、膨大な数の信管を量産して対日作戦に使用して対空射撃に実行を示したものと同構想のもので、開発の可能性が最も大きいと思われた。研究は20年3月初頭に着手され、短時日の間にかなりの進展をみた。最も懸念された弾丸内蔵の真空管が発砲時の衝撃で損壊しはしないかという点は案外に早く大丈夫との見通しが得られ、勢いを得た研究陣は着々と設計、試作と進めたが、関係機関の分散疎開が始まって関係機関の連絡不如意となり、研究不徹底のまま終戦を迎えるに至った。
昭和7年頃に行われた東北大学の電波高度計の研究は、技術的にはこの電波信管のそれに直結するものといえようが、当時はここに思いを致すものがなく、返すに一年の歳月をもってすれば管制してみせたものをと、関係者が悔いを残す結果となった。
2.機上管制用
機上から爆弾や砲弾の爆発を管制する方法が、小型機の大型機編隊を攻撃する新戦法として考えられ、そのような装置の開発研究が要請された。このためには、使用電波は10センチメートル附近で、研究の主対象は、団扇(うちわ)のように薄く電波をまとめる装置をどのようにして飛行機に装備するかにあった。
研究は20年に入ってから始められたが、国内の技術力の低下、空襲等による実験装置の損壊等のことがあって、開発の可能性について自信を持った程度で終わった。

【コメント】
・抽出した根拠資料について
資料1及び資料2については、敗戦直後にGHQへ提出した生資料であり、論点は「"A"装置」に関する事項である。
資料3及び資料4については、1951年(昭和26年)に日本無線史として日本側で取りまとめられており、この資料では「"A"装置」のキーワードはなく、タイトルも「電波信管」となっている。
戦後日本側で取りまとめられた資料については、明らかに米軍のVT信管の知見があり、資料に何らかのバイアスがかかっているように見受けられる。
このため、資料3及び資料4の内容については参考程度と考えた方がいいだろう。

・Z装置とA研究の関係について
1943年(昭和18年)8月から1944年(昭和19年)1月までの電波研究部の組織表を見ると、第一科 開発研究(伊藤庸二)はZ装置研究、電波暗視研究、水中電波研究をテーマとしている。
したがって、このZ装置研究からA研究の名称に変更したものと思われる。
以下、河村豊氏の電波兵器研究開発と科学技術動員の関連項目を掲示する。
この時点でZ装置開発の計画は,「基礎三」の所属として「A研究」と呼ばれていたことが確認できる (135).訓令では「Z装置」と呼ばれているので,本論文でもZ装置の用語を用いるが,海軍技術研究所内ではA研究として計画を呼び,他の計画と区分していた可能性が高い.
※(135)表の下にZの文字が付されている.『統進資料 L1 組織』前掲.担当者としては,山県技術大尉, 平井技術大尉,小塩技術大尉,水間技師(以上高等官),稲葉技手(以上判任官),1等工員1名, 2等工員13名である

コンプトン調査団報告
敗戦直後の 1945 年 9 月から行われた,いわゆる「コンプトン調査団」による調査では, 陸軍のみが「殺人光線」計画を持っており, 海軍が島田実験所で行っていた取り組みは 「マグネトロンの開発」と「A装置研究」で あって「殺人光線」とは判断しなかった.34) 陸軍の「殺人光線」の開発については,「これまでより何倍もの出力のある真空管が開発途中であり,これに成功すれば,10 メート ル{波}で1キロメートル先のウサギを殺傷できると見積もられていた」という.{ } は引用者の補足. 一方,「この開発では,飛行機の乗員に深刻な脅威や他の軍事利用を示すことはなかった.類似の技術でガソリンエンジンを停止させたことはあっても,この計画は実現不可能であるとして放棄された」と説明している.

・海軍牛尾実験所について
地元の新聞記事を紹介するが、記事内容を見ると「研究の中心はマグネトロンでマイクロ波を発生させ、上空の爆撃機B29に照射して撃ち落すという計画」と誤解を招く内容(専門家が説明しても記者には到底理解できないのであろう)となっており、これを世間が読むと更に誤解が再生産される。史実は以下とおりである。
"A "装置の研究
センチメートル波の応用として、無線制御による起爆装置の点火方法が研究されていた。 高射砲弾の中に適当なアンテナと起爆装置を設置し、地上から放射される鋭い指向性のセンチ波によるアンテナ電流で砲弾を爆発させることができるのである。 
アンテナ電流で直接爆発を起こすには、送信電力が極めて大きくなければならない。 そこで、強力な発振器の製作に力が注がれた。 10〜20センチメートル波で50キロワットの入力の発振器が完成し、テストに入ったところである。 このため、鋭いビーム波が得られるはずの直径10メートルのパラボラアンテナで、実際の試験を行う段階まで来ていた。
a-2

 A装置用の磁電管(マグネトロン)と直径10mのパラボラアンテナ
 a-3

B研究に関する文献を引用すると以下のとおりである。
電波兵器研究開発と科学技術動員
B 研究とは,電離層反射による物体探知可能性の研究
「B研究」は,物理懇談会開催当時は核分裂応用兵器(原爆)開発の取り組みを意味していたが(1942年6月から1943年3月頃まで),同懇談会閉会 (同年3月)後からは,「短波電波探信儀研究」という別の研究課題の略称として用いられている(同年8月以降) (136).
※(136)「電波研究部編成表(昭和 18 年 8 月 24 日)」『統進資料 L1 組織』前掲.


日本のA研究(電波信管?)と比較するため、米国のVT信管(近接信管)について下記のURLを全文紹介する。
これはレーダーと無関係でないのでここで説明します。
吉田満の「戦艦大和ノ最期」に記述のある臼淵大尉の戦訓への付箋に(「ドイツ」の渡洋爆撃を無力とした「イギリス」の最新対空兵器を知らぬか。高角砲弾に長さ数百米の鎖をもって分銅を結びつけ、「ロケット」により弾速を落とさぬやうに発射する。鎖はその倍の直径の円を描きつつ敵機に襲ひかかる{以下略))との話があります。実際にはイギリスはこの種兵器のアイディアは出したのですが、製造には関わっていません。米国も欧州戦線ではこの種兵器はV-1ミサイル迎撃と大戦末期のバルジの戦闘にしか使用してはいません。帆船時代には帆柱を倒す目的のチェーンショットと呼ばれる分銅と鎖の組み合わせの砲弾はありましたが、ここにあるような運動をさせる機能は物理的に難しいようです。
しかし航空機の性能向上から対空兵器の限界が見えてくると、この種の夢の兵器が欲しくなるのは無理からぬことです。
砲弾や爆弾、特に対人殺傷用の榴散弾は地表から一定距離の位置で炸裂させることが効果があるので、これを物理的に実現させるためのタイマーとか気圧計などを応用した信管は日本軍も含めて各国で研究がされています。しかし高射砲(高角砲)の砲弾ではタイマーによって発射の一定時間後に炸裂するものが用いられていました。アマチュア無線をやられた方はグリッドディップメータと言う測定器で御馴染みですが、真空管発振器は周囲に電波を吸収するものがあるとグリッド電流が急減したり、プレート電流が急増する現象が見られます。従って砲弾の中にこの種の発振器を組み込んで、敵機と至近距離まで近づくと炸裂するようにすれば命中率を格段に向上させることができることはすぐに思いつくことです。問題は砲弾の信管と言う限られた大きさ(砲弾自体が10cm内外の直径で信管はその先端に装着するので更に小さい)と発射時の衝撃に耐えて正常に機能する部品と、それを湯水のように使用されるだけの量を製造するための製造技術です。
実は昭和10年代にすでに米国のメーカーでは補聴器用途として超小型の真空管の開発が行われており、私も戦前の「無線と実験」誌に記事があったのを見たことがあります。小型にして更に扁平にすることで加速度に対する耐力は大幅に向上するのです。実際には発射時の衝撃は20000gにも達するけれどまだ信管が作動状態にない(自艦の影響で炸裂しては困るので発射による回転により5秒経過後に作動するように設定、従って2km以上の遠距離用)ので、最も大きな問題はライフルにより高速度でスピンする遠心力の影響で、これに耐えるための構造と砲弾内での配置が行われています。
熱や電源については高々10数秒も動作すれば充分なので問題は少なかったでしょう。アンテナ部分はプラスチックのカバーになっています。
米軍では不発弾の回収により秘密が漏洩することに極度に気を使い、陸方向への発射を禁止していたので欧州戦線では当初は利用されませんでした。
それでも被害の状況から命中率が異常に高くなっている原因を最後まで追究できなかった日本海軍の技術力や想像力の低さはあきれるばかりです。
・この種真空管の開発は日本の雑誌にも掲載されていた周知とも言えることだった。
・航空機の被害状況の急増が単に航空機の性能差や搭乗員の技量の低下などではないことは統計から予測できていたはず。
・当時の日本にも敵国電波の解析のための機材はあった。前線に持ち出さなかっただけ。
若手では薄々は想像していても、そんなことを言い出せない雰囲気があったのでしょう。米軍が機密漏洩に気を配ったのは、この種兵器は原理が判れば対策は簡単で、それによって量産している砲弾が全部使えなくなるからです。
実戦では米軍により最初にガダルカナルの戦闘で使用されました。VTfuzeと言うのは機密保持のためのコードでVariable-Time信管として近接信管であることを偽装していました。
信管の構成は4球式で、発振管、検出部の2段の増幅管、点火用サイラトロン(ガス入り管)から成ります。アンテナから発射する電波の反射を検出して一定の強度になると点火すると言う簡易型のレーダーとも言えます。使用周波数は220MHzあたりです。真空管の開発はSylvania社で行われ、T3と言う名前ですが、これは多分外形(3/16インチ)のことでしょう。
実物の写真がありますが、これは補聴器用のものとほとんど同型の3/16 x 2/16インチの扁平型です。これを縦向きに中央部に配置してスピンによる遠心力に耐えるようになっています。
電池は損耗を防止するために発射の衝撃で液を入れた容器が壊れて作動する仕組みでこれが最小動作時間を決めていたものと思われます。
回路図は Louis Brouwn氏の著書にあったものをトレースしたものです。
分解図はMARK53型信管のものです。
Mark53近接信管
 b-1

VT信管用サブミニアチュア管
 b-2

VT信管回路図
図に Butement氏設計の信管の回路図の一例を示します。
この信管は次のような原理を利用しています。
ハートレイ発振器(コイルにタップがあるタイプ)に接続されたアンテナによって近傍に電波の反射物があると、それからの反射波の位相関係により発振は強まったり弱まったりするので発振管のプレート電流はその反射体からの距離によって影響を受けます。
この変化は反射体との相対距離が変化すると波長と相対速度に応じた低周波成分(相対速度が100m/sec、周波数200MHzならば数10Hzのオーダー)が生じるので、その周波数成分を増幅して一定強度になると雷管に点火するようにするのです。これは1960年代の初めに出版されたユージン・バーディックの小説「フェイル・セイフ」に近接信管を誤発火させる方法を教える場面にある記述に合致していますから当時にすでに機密扱いではなくなっていたのかも知れません。
この方式は簡単な上に送信と受信の分離や両者の周波数の調整などの難しい問題がないので量産に適しています。現在は電波による妨害技術が進化していますから、もっと複雑な機構が採用されているのでしょう。
相対速度が変化しなければ発火しないけれど、砲弾と航空機の速度差からそんなことは起きないでしょう。多分、周波数は製造での公差からばらつきがあるのでしょうが、コストは安いし逆に妨害が難しくなる利点もあります。回路が発振部と増幅部に分離しているのは個別の単体試験・調整を容易にするためと機密保持のためと思われます。
ゲイン調整は信管を取り付ける砲弾の威力によって有効半径が異なるので使い分けるものと考えられます。
特徴的なのは電池の種類の多さですが、これは当時の電池管では仕方なかったのでしょう。B+には96Vを用いていますから、積層電池の大きさは結構なものとなったはずです。
この回路は当時の技術レベルを全く巧妙に利用して実現した芸術的とも言える構成です。物理的条件である相対速度が一桁小さいならば増幅器部分は直流増幅器のようになり安定したものを実現するのは困難だったでしょう。また発振周波数も一桁小さいならば同じことがおきます。100-200MHzの発振周波数が必要だったことから、この種の真空管式近接信管は1950年代半ばになっても一部をトランジスタ化して使い続けられたものと考えられます。
b-3


【コメント】
回路解説
Oscillator(送信部)
ハートレイもどきの発振回路(使用周波数;220MHzを採用した高周波発振用三極管の発振器により、正弦波の搬送波を発振する1球のシンプルなシステム構成としている。
発振コイルに直結したアンテナから正弦波を発信するとともに、プレート側の端子1を経由してAmplifier(受信部)の入力端子に印加している。
Amplifier(受信部)
直熱菅の5極管2本とサイラトロン管1本の合計3本の真空管により、プレート検波、低周波増幅及び電子信管機能を構成している。
なお、受信部入力段には、同調コイルはなく、非同調の単純な仕組みが採用されている。
本機が直熱菅を採用している理由は、一般的なカソードを持った傍熱菅では、ヒーターに電圧を印加しても数秒の余熱時間が必要となるため砲弾の信管用途には不向きである。
その点、カソードのない直熱菅では、トランジスタ―なみの高速な起動が可能である。
動作原理は、220Mhzの正弦波を送信し、目標の航空機からの反射波を受信すれば、受信機は自分で送信した直接波と反射波を同時に受信することになるが、反射波にはドップラー効果で送信した周波数と異なった周波数(相対速度が100m/sec、周波数200MHzならば数10Hzのオーダー)となることから、この合成受信波を検波すれば合成差のビートの低周波信号を得る事ができる。
この低周波信号を増幅してサイラトロンのトリガー電圧としてグリッドに印加すればよい。
ただし、目標物と砲弾との接近距離を考慮した範囲に入るまでは信管は起動制御が必要となる。
このため、サイラトロンのグリッドは-7.5Vの初期電圧(カットオフ電圧)を設定しており、プレートには電圧がかかっていても電流は流れない状態となっているが、トリガー電圧がこの-7.5Vを越えてプラス電圧になった時、サイラトロンが動作することによりプレートの電流が流れ、このプレート側の信管Zが起動することになる。
なお、ブロックダイヤグラムの左下のコメント;Set Back Switchの記載のとおり電源である蓄電池と装置間にはスイッチ機構(Set Back Switch)があり、仮に不測の事態による衝撃により電解液が破壊され蓄電池機能が生起しても、防爆用の保護回路として機能する安全装置のように見える。


【総合コメント】
・"A "装置の研究の起爆装置の問題点について
起爆装置は、<高射砲弾の中に適当なアンテナと起爆装置を設置し、地上から放射される鋭い指向性のセンチ波によるアンテナ電流で砲弾を爆発させることができるのである。>とあるが、どう考えても砲弾内のアンテナの具体的なイメージを描くことができない。
敢えて描くとすると、砲弾の後部にアンテナとして小型の電磁ラッパと付属の空洞共振器を用意して共振器内で点火させるイメージである。
しかしながら、砲弾の後部に設置するアンテナ部は、砲弾発射時の衝撃に耐えるアンテナ部構築が可能だろうか。
日本レーダー小史 第Ⅰ巻(A short survey of japanese radar Volume 1)には、<彼らの失敗は「適切な受信装置の不足」によるものでした。>とあるのみで具体的な問題点が指摘されていないのでこれ以上解明することができなかった。
参考情報 独逸の砲弾見本(本テーマのものではありません)
 c-0

・VT信管(近接信管)のOscillator(送信部)のハートレイもどきの発振回路の検証について
回路を検証すると正規のハートレイ回路とは明らかに異なっている。
本当にこの回路で発振するかを簡単なモデルで検証すると、何故か発振現象を起こすことが出来なかった。
検証モデルが3Mhz帯のための起因、直熱菅と傍熱菅の相違や、オリジナル回路からのトレース誤り等の可能性が想定されるが、原因を特定することができなかった。

検証モデルは、UY-76(三極管)、発振コイルは自作品、回路定数は同じ規格を採用
C-1

 
(注)回路図のコンデンサーの単位は、50mmF、0.005mFと記載されているが、50pF、0.005μFと同等である。(昔のタイプライターにはμの文字はない!)

正規のハートレイ回路による検証(当然のことであるが簡単に発振現象を確認できた)
 C-2

【R05.12.16】追加検証
前回の実験ではサイラトロンの発振ができなかったことから、今回はサイラトロンの動作条件を変更するために、カソード抵抗として2KΩを追加して実験した。
この結果、サイラトロンTY-66Gでも発振することが確認できた。
更に、送信波形を観察すると、何故、通常の3極管ではなくサイラトロンを採用したのか理由が判明した。
通常の3極管の発振は当然ながら搬送波のみ送信波となるが、サイラトロンを使用することに変調をかけることになり、搬送波+低周波信号の送信波となる。
これは、ドップラー効果を高めるための措置と思われる。

c-3

c-4


・戦後の電波信管の紹介
Yahooオークション情報 
V・T FUSE・特殊信管・電波信管(出品者:r670505_0615)
国産品 どの砲弾に装着される信管か不明。部品に欠損が有るかもしれませんが、当方この手の信管は不勉強で分かりません。内部の風車は良く回ります。ですからこの信管の正式NAMEも不明です。よく映像をご覧頂き入札をお願い致します。サイズは画像に写し込みましたので(見にくいですが)それで御判断下さい。尚、商品はこの信管のみです。材質はTOPの部分は樹脂、内部を除き外観で見える部分はアルミ(?)の削り出し(?)の様に見えます。
【コメント】
自衛隊の電波信管のようであるが、送受信機は固体素子化されており、電源は風車発電機により供給されている。このため、砲弾には風を取り入れる窓穴がある。
 C-3





参考文献
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
「続日本無線史」第一部 昭和47年 続日本無線史刊行会
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
日本海軍エレクトロニクス秘史 田丸直吉 原書房
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二
A short survey of japanese radar Volume 1
A short survey of japanese radar Volume 3
電波兵器研究開発と科学技術動員 河村豊
電子管の歴史 VT信管(近接信管)
http://home.catv.ne.jp/ss/taihoh/vacuumtubes.html
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Yahooオークション情報

海軍技術研究所・電波研究部における空二四号の研究開発に関する考察について

日本電気の小林正次さんの「日記」<未完の完成>に「空二四号」なるレーダーに関する記載があります。
しかしながら、日本無線史などの公式文書には、この空二四号に関する具体的な資料はありません。
今回は、この謎の海軍航空機搭載用の空二四号に関する調査を行うこことしました。

「日本電気ものがたり」からの電波兵器の関連のところを抜粋
小林正次さんの「日記」<未完の完成>から、研究所生田分所の解説から終戦にいたる経緯を辿ってみます。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める。
昭和19年5月2日
犬吠埼にタチ二〇の実験、三〇〇〇メートルの飛行機を50キロまで高度を正確に追いかけることが出来た。
昭和19年7月8日
タチ二〇は急速整備をすることとなった。一〇〇キロまで高度が測定できるものは世界に類がないので大いにやることになる。
昭和19年8月15日
タチ二〇は最重点兵器となった。伊藤大佐同行、横須賀-野比に行き二四号の対艦試験を行う。対駆逐艦二六キロの成績を得た。二四号も重点兵器となる可能性あり。 
昭和19年12月6日
昨日イ号が熱海の玉の井旅館に命中して火事を起こしたという。B二九の電波暗視機を見る。波長三センチ、受信管は金属管を用いた導波管を使いこなしてある。大変参考になる。
昭和20年7月9日
原島君から波長五センチの受信管の完成報告を受ける。外国にも例のない立派なものが出来上がった。大変愉快である。これによって重要兵器が出来上がるであろう。
昭和20年8月15日
我が国は、あまりにも科学技術を軽んじた。今後の行きかたは科学技術の育成ということを第一にかんがえなければならぬ。各人の仕事に改めて目標を至急着けてやる必要がある。新しい日本への具体的な仕事の目標を示してやる必要がある。

小林正次さんの「日記」から空二四号に関する関連事項のみを抜粋する。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める
昭和19年8月15日
タチ二〇は最重点兵器となった。伊藤大佐同行、横須賀-野比に行き二四号の対艦試験を行う。対駆逐艦二六キロの成績を得た。二四号も重点兵器となる可能性あり。 

更に、海軍技術研究所・電波研究部の組織図(昭和19年2月)には、第六科(航空機用探信兵器)の研究項目として第二班24号(担当:新川)とあり、日本電気の小林正次氏の日記にある空二四号と完全に符合することがわかる。
更に、空二三号(担当:高橋)なる別項目の研究テーマも並行して研究開発が行われている。
a-1


海軍技術研究所・電波研究部の第六科(航空機用探信兵器)の研究項目である空23号及び空24号については、本来は空技廠の所管にもかかわらず航空機用電探の重要な基礎研究のテーマであることは想像できる。
このようなことから、この航空機搭載の電波探信儀は、センチ波を利用したPPI表示式レーダーである可能性が高いと考えられる。

更に、開発に至る当時の背景について以下に考察する。
PPI表示レーダー開発の経緯(公式資料からの抜粋)を整理すると以下のとおりである。
・陸軍 タキ14は1943年(昭和18年)8月末に研究を開始した。東芝通信社に試作を命じた。
・1943年(昭和18年)2月2日と3日の2回目の作戦任務で、H2Sはドイツ軍によってほとんど無傷で捕獲された。
・1944年(昭和年19年)1月25日 電波外資第27号 英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独逸側の対策を本国(海軍)に伝達
・1944年(昭和年19年)12月12日から15日 B29のWestern Electric社製のAN/APQ13の陸海軍合同で分解調査
・1945年昭和20年)1月24日から2月8日まで、米潜Darter搭載のSJレーダーを詳細な取扱説明書に基づいて調査

この資料で分かることは、日本で最初にPPI表示レーダーの開発を目指したのは、1943年(昭和18年)8月末から陸軍のタキ14である。
この開発参考元は、ニューギニア戦線で鹵獲した米軍のSCR-717と推定できるが、公式記録にはない。
鹵獲したレーダーは陸海軍での技術情報共有と対応する開発方針が確認されたはずだが、陸軍はタキ14として東芝へ、海軍は空24号として日本電気へと試作を命じたのだろうか。
この時点(1943年(昭和18年)8月末)での日本側の技術的限界は、米軍のSCR-717がマグネトロン(磁電管)を使用した3Ghzを使用していたにも関わらず、両社には実用的なマグネトロンを用意しておらず、従来管の三極管による1Ghz帯(波長25から27cm)で対応するしか手立てがなかったのが実態であった。
唯一3Ghzのマグネトロンを使用した日本無線の2号電波探信儀2型があるが、受信機の不安定さのために実運用には大きな課題を抱えている状態だった。
1944年(昭和年19年)7月以降になって、受信機に鉱石検波器を使用したスーパヘテロダイン方式が採用され、真の意味で実用化が完成した。
日本無線がこのプロジェクトである米軍のSCR-717の技術情報へアクセス可能であれば、受信機のスーパヘテロダイン方式への転換はもう少し早期に実現できたのかもしれない。
もう一つの課題は、日本無線のマグネトロン(磁電管)の艦艇用のため水冷式であったことから、航空機に搭載するためには空冷式のマグネトロン(磁電管)を新たに開発する必要があった。
このためマグネトロン(磁電管)方式を避けて早期開発したいとの陸海軍の研究所と東芝と日本電気のメーカーとの思いが一致したのであろう。

【推論による結論】
このように少ない情報で空二四号の機能を類推すると以下の通りである。
名称 海軍 空24号 航空機搭載用電波探信儀(水上見張用)
波長25センチ(1200Mhz)のセンチ波の採用は、PPIの用途目的であり、陸軍のタキ14に相当であろう。この開発の手本としたのが米軍のSCR-717である。
製造 日本電気
用途 15kmまで中型攻撃機 対駆逐艦26km
昭和18年12月20日には試作品完成、昭和19年8月15日には兵器化完了を目指した。

なお、空23号については、2号電波探信儀2型の派生型及び米軍のSCR-717からのPPI方式の電波探信儀を日本無線が担当した。 
実務的には、この空23号をベースに水冷式マグネトロンM-312をもとに空冷化マグネトロンM-314の開発がこの時点で行われたものと思われる。
なお、空技廠により新規プロジェクトとして1944年(昭和19年)7月から海軍5号電波探信儀1型(51号)の新規開発に着手した。
このため、空23号及び空24号の研究開発は一旦中止し、空技廠へ一本化され、海軍技術研究所電波研究部はこのプロジェクトに協力する体制をとるに至ったものと思われる。
水冷式M-312の見本
 a-2

空冷式M-314の見本
 a-3


【疑問点】
日本電気の小林正次さんの「日記」には空二四号の機能に関する内容が記載されていない。
特筆的なものの開発であれば、ここでは電波暗視機などのPPIに関するキーワードを日記に記載してもよいと思うが実際なにも書かれていない。


<根拠資料>
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行)からの抜粋
電探用送信機としては多くの種類を製作したが、これらの大半は三極管方式によったものである。
これは機器内に使用する真空管は極力同一規格の三極管を用いるもので、操作保守を能率的かつ簡便にするには極めて有効な方式である。
もちろん三極管で超短波を発振することには、構造的にも周波数の限界があるが、当社では極力この方針を推進して、戦争末期に当局から磁電管の製作を要請されるまでこの方針を貫き各種の特色ある兵器を完成した。
このうちには三極管を使用した極超短波(マイクロ波)の電探がある。
これは波長30~60cm(周波数500~1000Mc)のもので、それまでの超短波を用いたものよりもはるかに分解能のすぐれたものであった。

日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋
この電波探知機はB-29来襲の際、その早期発見に役立った。しかし、連合国はさらにマイクロ波を利用するまでに進展していたのである。
また、「板極管」の開発と生産が生田を中心に行われた。しかし、従来の三極管では有効利用の波長の限界は1.5mであったが、レーダの精度向上のために数10cmの電波を用いる必要かあり、1944年4月に、ドイツからシャイベンレーレといわれる三極管の使用の情報を得た。これを推測しながら試製してできたのが、JRBという板極管であったが、「成績ハ良カッタガ試作管ガ出来上ガッタノミデ、終戦トナッタ」のである。
純技術的にいうと、メートル波とセンチ波の相違、システムエンジニアリングの欠如、正確な測定技術にもとづく定量的設計の欠如など、技術開発の遅れは否めないが、マイクロ波通信がレーダの延長上にあったから、無線誘導機、無線誘導爆弾の開発を含めて、自力開発の経験は貴重であった。

A short survey of japanese radar Volume 1から抜粋する。
住友通信工業株式会社
パルス波発振用超高周波送信管(1941年8月~1945年8月) 
1941年に研究を開始、最初の製品は波長3m、出力10KwのTR-593、1942年には波長4m、出力50KwのTR-594が完成した。1943年(昭和18年)には TA-1504(波長1.5m、出力5Kw)、TA-1506(波長80cm、出力1Kw)が製造された。1943年から1944年にかけては、波長28cmの送信管を研究し、出力1KwのLD-212-Cを開発、1945年には特殊な構造(板極管のこと)を利用して波長10cm、出力1.25 KwのLD-22-1Bを開発したが、実用化には至っていない。上記の出力値はピーク出力値である。

SCR-717-A & SCR-717-B Microwave Small-Package ASV Setsの概要
用途:SCR-517から開発されたマイクロ波小型パッケージASV。SCR-717-AはパイロットとオペレーターにBスコープを提供し、最大範囲は5、20、50、100海里。前方または後方180°を任意にスキャンできる。SCR-717-Bはパイロットとオペレーター用のPPIスコープで、最大レンジは4、25、40、100海里。すべてのレンジで360°スキャンが可能で、4マイルレンジではオープンセンター表示が可能である。
 b-1

b-2


<参考資料>
A short survey of japanese radar Volume 1
<陸軍航空機搭載レーダーの概観>
最初の陸軍の航空用セットであるタキ-1は、日本無線によって1943年に設計から設置までわずか6か月で製作された。これは200メガサイクルで10キロワットピーク出力で動作した。表示は距離電子マーカーで区切られたシンプルなAスコープ上で行われた。送信機と受信機を3つのアンテナのいずれかに切り替えることで一定の方向探索が可能であり、機首の八木アンテナと胴体の両側にあるダブレットが使用された。これは海上捜索には非常に満足のいくものとされ、1000セット以上が製造された。その後も小型で軽量なモデルが時折登場した。
タキ-1が提供する表示の精細度を向上させる必要性が認識された。そのため、1943年8月には多摩研究所で27センチメートルの波長の航空用レーダーであるタキ-14の研究が開始された。三極管の送信管を使用した最初のセットは、1944年8月に多摩研究所の魚住少佐の指揮の下で完成した。アンテナはパラボラ反射鏡を持つ八木アレイでした。重爆撃機に搭載された場合、このセットの範囲はわずか25〜30キロメートルであり、ほとんど十分ではないと考えられた。1945年2月までの一連の実験により、送信伝送路とアンテナの改良により範囲は40〜50キロメートルに拡大された。製造工場へのB-29の爆撃により生産は非常に困難となり、そのため終戦時の8月までに実際に設置・使用されたセットはなかった。この期間中、キャビティ調整の使用を含む継続的な実験により、範囲は70〜80キロメートルにまで向上した。
27センチメートルでのタキ-14の開発と並行して、多摩研究所では同一の装置を使用し、10センチメートルの送信管に対応するように無線周波数回路を変更した研究が行われ、タキ-24が生み出された。同時に、住友通信工業の生田研究所では、5センチメートルのセットであるタキ-34の開発が行われた。送信にはマグネトロンが使用され、局部発振器には速度変調管が使用された。パラボラアンテナの位置に対応したスイープを持つPPI表示がスコープ上で磁気偏向コイルを使用して行われた。これは日本上空で墜落したB-29の構造を見た後に開発された。このセットは1945年7月に多摩のエンジニアに引き継がれた。
これらの磁電管のサンプルは、太平洋アメリカ陸軍軍隊総司令部の信号参謀長事務所によって、アメリカ合衆国に送付された。
実際の飛行テストは行われなかったが、東京の南にある半島の網代の高地からの実験では、近くの山々でわずか12〜15キロメートルの範囲しか示さない結果が示された。このセットおよびそれに関するすべての回路とデータは、終戦の前日である8月14日に、製造者によって破壊された。

<海軍航空機搭載レーダーの概観>
航空機搭載用レーダーに関する最初の開発作業は、1941年11月に海軍によって行われ、150メガサイクルで作動する哨戒および探索セット(H-6型)が開発された。その後の数年間で、これらの優れた満足のいく性能を持つセットが日本無線株式会社によって約2000台製造された。H-6は、戦争末期には、より軽量でコンパクトなFK-3に道を譲ることになった。
海軍は、レーダー爆撃が可能であれば、海上哨戒に使用される 150 台のメガサイクル セットよりも優れた解像度が得られることが望まれることを十分に認識していた。
この目的で10センチメートルの艦船搭載用セット「22号」を改造する試みも行われたが、このプロジェクトは失敗に終った。
その間に、ロッテルダム・ゲラーテと呼ばれる10センチメートルの航空用探索セットの設計仕様が、ドイツから無線電信で受け取られた(現在、そのデータはドイツ軍がロッテルダム上空で撃墜した初期のイギリス製H2Sセットからのものであると考えられている)。受け取ったデータを基に、海軍技術研究所はそのような装置を開発した。その結果、回転パラボラアンテナとPPI表示を備えたマグネトロン駆動の51号セットが作られた。しかし、テスト結果は期待ほど良くなく、海岸線上での射程は約20キロしか示さなかった。3つのセットのうち2つは破壊され、残りの1つのセットは極東航空軍の航空技術情報部によってアメリカに送られ、調査のために提供された。51号の回路図は、本調査の付録IIに掲載されている。

<陸海軍の連携協議>
陸軍と海軍がアイデアを交換せず、同じ装備を使用しないことによって引き起こされた効率の大幅な低下は、各工場で完全に分離された研究、技術、製造部門を維持しなければならなかったメーカーによって強く指摘された。これはついに一部の高い地位の人々に認識され、1943年8月に陸海委員会(日本海軍陸軍電波技術連絡会)が設立され、陸軍と海軍のプログラムを調整するために活動した。委員会は月に一度会合しましたが、陸軍と海軍の間でさえ同じIFFセットの使用について合意することができなかった。海軍は145から155 mcを掃引するトランスポンダを持つセットを採用したが、陸軍の搭載セットは184 mcの周波数で受信し、175 mcで再送信した。したがって、陸軍は日本海軍の航空機と敵機を区別することができず、海軍も日本陸軍の航空機に対して同様の問題を抱えていた。陸海共同委員会の主な貢献は、小型ウルツブルグクセットの発注について両軍をまとめることと、現行の海軍の51号と陸軍のタキ-14に続く次の搭載セットが共同でスポンサーされることに合意することでした。
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この最後のプロジェクトにおける協力についてさえ疑問が存在し、戦争終結時に陸軍が積極的に5 cmセット(タキ34)の実験を行っており、海軍の参加はなかったようである。




参考文献
A short survey of japanese radar Volume 1
日本電気ものがたり (1980年)
日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行)

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