ウルツブルグ型電波標定機「タチ24」の国産化の顛末について
ウルツブルグ・レーダーの国産化に関する資料としては、「幻のレーダーウルツブルグ」昭和56年12月 津田清一著が有名ですが、日本無線の製造関係者の視点から論述されているため会社関係者として好ましくない事項は意図的に省略され、史実からは少しバイアスがかかっているようだ。
このため、ウルツブルグ・レーダーの国産化に関する資料・文献及びネット情報に基づき、ウルツブルグ・レーダーの国産化の歩みを総合的に考察するこことした。
ドイツのウルツブルクD型(FuSE-62D型)
第一次遣独艦
伊号第三十潜水艦(艦長遠藤忍海軍中佐)…1942年(昭和17年)8月6日、フランス・ロリアン入港 (Lorient)。復路の1942年(昭和17年)10月13日、シンガポール港にて自軍の機雷(同港占領時に故意に残された英軍のものという説もある)に触れ沈没。
ウルツブルグD型の製作見本器材は3台と図面を取得し(1台は海軍に分譲)出荷手続きを完了した。
海軍は搭載物の引き揚げを図り、20ミリ機銃弾のほとんどと魚雷発射誘導装置、ウルツブルク射撃管制レーダーの設計図等を回収したが、多くの荷物は破壊され、最も重要な積荷であったウルツブルク射撃管制レーダーも破損してしまった。
1944年(昭和19年)4月15日に除籍された。
【コメント】
海没したウルツブルク射撃管制レーダーの設計図及び本体機器は、全く利用できなかった。
イタリア側の遣日潜水艦作戦
イタリア海軍は、1943年(昭和18年)6月16日に、伊号第三十潜水艦が成功しなかったウルツブルク・レーダーの器材・図面の輸送を挽回すべく、イタリア海軍の潜水艦ルイージ・トレッリ号がドイツ・テレフンケン社(Telefunken)ウルツブルク・レーダー技術者ハインリヒ・フォーダス(Heinrich Foders)と電波兵器専門家の佐竹金次陸軍中佐を乗せ、ボルドーを出航した。
ルイージ・トレッリ号は1943年(昭和18年)8月30日に無事シンガポールに到着した
シンガポール到着後にフォーダスは空路日本に向かい、無事帰国した。
【コメント】
1943年(昭和18年)9月、佐竹が帰国して多摩研三科長に就任した。ドイツからの資材が未着のため、フォーダスと東芝により佐竹式ウルツブルグ(タチ4号改)の開発に従事。
佐竹の在独報告書と電子回路と構想図面及びフォダスが携行したテレフンケン社製ウルツブルグの技術資料(A4版で厚さ3cm余の立派な書)が活用された。
作業分担では、指示機とウルツブルグの肝となる技術である精密測距器は岡本少佐と学生2名、後から木塚技師と東芝研究所グループであった。
第二次遣独艦
伊号第八潜水艦(艦長内野信二海軍大佐)…ヒトラーが日本に無償譲渡するUボートU1224号をドイツから日本に回航する要員60名を乗せ、1943年(昭和18年)6月1日呉港を出港、同8月31日ブレスト港に到達、1943年(昭和18年)10月5日ブレスト港を出港し帰路についた。同12月5日シンガポールのセレター軍港に入港した。
1943年(昭和18年)12月21日呉港に入港。
ウルツブルク射撃管制レーダーの設計図面及び本体機器一式を入手した。
交換兵器の一覧
【コメント】
念願の設計図面とウルツブルグ本体は、1943年(昭和18年)12月21日呉港に入港した。
津田氏の「幻のレーダーウルツブルグ」からの抜粋
1944年(昭和19年)1月7日、多摩研佐竹大佐から待ちに待った図面が、海軍技術研究所に届いているから取りに行けと電話がかかって来た。
「ドイツ図面は精緻を極め、図面どおり忠実に生産すれば、本物と同じウルツブルグが再現できる完全な製造図面で、無言の命令図といえよう。
その特徴の一部を紹介する。パルス用五極真空管LS50は、表のごときボタンステムの構造だが、その中味を四倍、一〇倍に拡大し、作業工程に従い素材の性質、寸法の歩留まりや仕上代、加工前後の処理方法、作業上注意すべき要点、ガラス材と金属材の寸法公差と熱膨張係数の許容値、排気の値、そして、試験方法とデータの許容値などが詳細に記入されていた。
電子機器の接続配線は配線1本ごとに寸法と交差、素材、端末処理、試験方法、また多芯ケーブルの図面には湿気の絶対に入らぬように端末処理の方法までが克明に指示されていた。
かくして、ドイツ図面の日本化の方針が確定し、いよいよ行動を述べるに当たり、方針を再掲しておく。
1.独逸図面はすべて三角図面で書き改める。
2.5,000枚の図面は500枚に縮減する。
3.8桁の図面番号は3桁とし、関連を明示できる親子、孫らの親族番号とする。
4.組立図で構成要素と寸法そして親族番号がわかり図面番号を図表で首引きする仕事は全廃する。
5.図面の日本化は1944年(昭和19年)3月末完成を目標とする。
【コメント】
図面の日本語化は1944年(昭和19年)3月末に計画どおり完成した。
佐竹大佐が1944年(昭和19年)4月1日、三鷹の日本無線に現れ、生産責任者中島社長以下関係者を集め、ウルツブルグの、日本化された図面を前にして、生産方針を次のように明示した。
1. 現在、日本電気で生産されている「タ号3型電波標定機」の生産を打ち切り、ウルツブルク・レーダー(タチ24)に生産を切り替える方針である。
2. 試作機の完成しは、1944年(昭和19年)末を目標とし、調整、検査改修完了は、1945年(昭和20年)2月末、電波兵器実験の完了は、1945年(昭和20年)5月末とする。
3.標定機用架台は高射砲架台を官給する。
4.反射鏡は広島県下の東洋工業(株)に日本無線が発注し、多摩研が連絡する。
5.ブラウン管は東芝研究部が担当する。
6.ドイツ電子管は、日本無線が担当する。
7.その他の生産と取り纏めは日本無線、三鷹工場(皇国第294工場)とし、生産責任者は、中島進治社長とする。
8.多摩研究所の責任者は新妻精一中佐、仕事の担当者は山口直文大尉とする。
9.生産遂行上の障害は、多摩研が責任をもって処理をするから、遠慮せず山口直文大尉に申し出られよ。佐々木工場長は、陸軍工場の小杉繁造部長にウルツブルグの試作機を、今年末までに是非とも完成せよ、と命じた。
ウルツブルグの電子管はわずか11種で、3種がブラウン管、8種が発振増幅変調などの真空管であった。超小型、小型、円周走査ブラウン管は、米国にも無い特殊な電子管だが、東芝のCRT技術ならは出来ると、浜田成徳電子工業研究所長が引き受け、岡部豊比古博士、大田芳雄、平島正喜、漆原健技師などによってテレフンケン以上のブラウン管が生まれた。
さて、残の8種は、ウルツブルグの性能を左右する波長50cmの送、受信管のパルス用の電子管だった。これら電子管の日本無線の責任者は、岡田高陸軍真空管部長(諏訪工場長)でった。
【コメント】
陸軍の電波標定機における日本電気の役割であるタチ3の開発は、昭和19年10月を以てお役御免となっているが、陸軍としては日本無線、東芝、日本電気の3社にウルツブルの生産を依頼している。
A short survey of japanese radarからの日本電気の関連事項を抜粋
住友通信工業株式会社
円形時間軸(円周走査)陰極線管(1941年8月~1944年9月)
円形の時間軸に電磁偏向コイルを使用し、強力な偏向による円錐形の同軸偏向板を使用する陰極線管が調査され、LB-2の製品名で生産された。
※コメント
この特殊な円周走査ブラウン管の製造は、ドイツから導入した何らかの機器の国産化との関係が疑われるが真相は不明である。なお、戦争後期には、肝心な円形時間軸(円周走査)陰極線管LB-2に関しては1944年9月に生産停止していることから、ウルツブルの生産とは関係していないことは明白である。
ウルツブルク電波標定機用真空管 (1940年3月~1945年8月)
ドイツのウルツブルグ電波標定機で使用されていたTelefunken社製のLS-180とLG-1真空管、LB-1 LB-I3/40ブラウン管を模倣して製作された。 これらの真空管の大量生産が開始された。
※コメント
ウルツブルク電波標定機用というよりこれらテレフンケンの真空管は、ドイツから導入した何らかの機器の国産化との関係が疑われるが真相は不明である。なお、ウルツブルグ電波標定機の真空管とは異なるドイツ製の真空管(参考例:LD1、LB-I3/40)も日本電気で生産している。
陸軍は19年度からタチ24(4式電波標定機)を重点兵器として生産管理をおこなう。
計画では、反射鏡は広島県下の東洋工業(株)、標定機用架台は高射砲架台を官給品とする予定であったが、実際は両方とも東洋工業(現マツダ)が生産を委託されている。
東洋工業(株)『東洋工業五十年史. 沿革編 1920-1970』
表の4式電波標定機架台装置の月産は約500個となっているが、月産15個が正しい数値と思われる。
いろいろ努力の結果、ようやくにして自信が持てる製品(真空管のこと)が完成し、それを三鷹に送り、ウルツブルグ試作第一号機でテストした。しかし、それでも不具合の点が生じフォダスが諏訪工場に出向いてきて、細部の修正などを行い、やっとのことで実用品が供給されたのである。
【コメント】
受信用真空管については、日本無線の諏訪工場で試験操業にはいっているはずであるが、上記文書では完成した真空管を試作一号機でテストしたとの記述がある。
この試作一号機は、実はドイツから搬入した本物のウルツブルグそのものであれば、上記の文言には矛盾はないが、そのような記載は残念ながらされていない。
真空管製造品種事例
受信管
送信用3極管
送信出力管
試作1号機が、1944年(昭和19年)末に出来上がり、大沢実験場に運び、山口大尉たちが実験を開始した。フォダスの指導により山口少佐、伴大尉、小林少尉、古川見習士官、小池軍曹、神前伍長、工員3名が順序よく試験をしたのだが、ウルツブルグの性能は発揮されなかった。フォダスは根気よく各部分を調べ回ったが、試作したままでは働かず、フォダスが帰ったあと、日本無線の宮下、内田、三佐保技師(タキ1開発に従事)たちが多年の経験を生かして必死に調整を試みたが、やはり結果は同じであった。
1945年(昭和20年)に入るとB29の来襲が激しくなったが、ウルツブルグ2号機から5号機までの生産を続けていた三鷹工場は、危険を感じるようになり、生産速度が次第に落ちてきた。
B29の空襲頻度に比例して生産能率は低下し、1945年(昭和20年)3月10日には長野県川中島工場に移転せざるを得なかった。
試作機から得たデータで各部分を修正して、やっとのこと1号機を送り出し熟練工員諸侯が、その成果を聞きに来るので、まだ、試験中だというと、「何時まで試験している。2号機が出来ているのに」と文句をいわれた。
様子を聞きに大沢多摩研究所に行くと、ウルツブルグ第1号機は久我山高射砲陣地に運んで装備中であり、第2号機の検査受入準備中との事だった。
【コメント】
ここでいう1号機は、「幻のレーダーウルツブルグ」では純国産化のような文面で記述されているが、実際は田丸直吉氏の「日本海軍エレクトロニクス秘史」で明らかなように、ドイツから搬入したウルツブルグの原型機そのものであり、国産初号機は、試作2号機ということになる。
しかしながら、原型機である試作1号機といっても、ドイツ提供資材から欠落したコントロール盤のユニットと日本側で製造する予定の反射鏡(アンテナ)や標定機用架台の製造及び装置全体の結線などの作業をする必要があった。
ただし、日本無線としては、1号機を出荷しても、2号機は組立を完了していることから2号機の動作には自信があっての出荷なのか、5式15cm高射砲の久我山陣地の構築に合わせての無理やりの出荷だったのか本当の理由は不明である。
基本的には、日本無線側が虎の子のドイツのウルツブルグ原型機を生産管理上手放すことはないはずである。
久我山の高射砲陣地
※「本土決戦 土門周平ほか」には、高射砲112連隊指揮班小隊長・陸軍曹長高橋一雄氏によると、久我山陣地の高射砲によるB-29撃墜については、「電探射撃はどうか」との中隊長の問いに「電探諸元がはいらない」とのことで目視射撃を行ったとのことであることから、タチ24は何らかの理由で肝心な時には機能していなかったようだ。
田丸直吉氏の「日本海軍エレクトロニクス秘史」からの抜粋
伊8潜は1943年(昭和18年)12月21日無事呉軍港に帰投し、貴重な積荷は間もなく東京の海軍技術研究所に送られてきた。そして無事多摩研究所に届けられた。ドイツから発送の時の手違いからコントロール盤のユニットだけが欠除していたが、その他の機器は全部完全な状態で到着した。架台やパラボラ反射鏡は統べて日本で作ることになっていたので、之と一緒にコントロール盤も新たに作ることになった。
現品見本を入手した陸軍の佐竹グループは機構部分の製作に懸命の努力を注ぐ結果、19年の秋頃にどうやら第一号機を纏め上げることが出来た。そこで之を基本として内地の高角砲台用として射撃用レーダーを製造することになった。製造は日本無線の長野工場が引き受けることになったが、資材の準備をし、一部製造をした程度で遂に終戦を迎え実際に射撃用として活用されたのは、ドイツから遥々(はるばる)送られて来たドイツ製機材を組み立てた第一号機のみであった。之は武蔵野市の中島飛行機の工場の空襲を受けた際に立派に射撃用として活用されたと云う。
【コメント】
空襲による工場の被災や生産資材の枯渇などで実際はこれ以上の生産活動はできなかったのだろう。
東芝の真空管製造所関係の被災状況を以下に示す。
ここでA short survey of japanese radarのタチ24に関する概要を紹介する。
タチ - 24
ウルツブルグ型電波標定機
対応する連合国呼称 なし
技術的特徴
波長=50cm、 出力10KW、 測距距離40Km
精度 距離±40m、 方位角1/8°、仰角±1/8°
製造数:3台、 設置台数:0台
概要
日本無線は、ドイツの小型ウルツブルグ50cm射撃管制用レーダーの複製として製作した。
1944年1月にドイツから潜水艦で青焼き図面と真空管などの特殊な部品が運ばれてきた。
20 人もの技術者がその製造を支援する計画で来たと噂されていたが、実際に確認できたのはドイツ人技術者のフォダス氏1人だけであった。
日本無線が日本仕様に改造し、最初に3セット、そのうち2セットを住友、東京芝浦両社に送り、大規模生産のモデルとしてもらうことになった。
当初は50台の発注があったと言われている。
この最初のモデルの製作に1年半を要したことについては、陸軍の技術者とメーカーとの間で、どちらが主体となっているのか、意見が分かれているようである。
いずれにせよ、この最初の機種は、住友や東芝から供給されるはずのブラウン管などが、工場の空襲で入手できなかったことが主な原因で、一度も稼働することがなかった。
メーカー側は「あと1カ月戦争が続けば、『タチ-24』が稼働していただろう」と語っている。
もし、日本軍が6ヶ月早く、追尾精度に優れたこのセットを持っていたら、日本軍の高射砲防衛の効果は非常に大きくなり、日本軍のB-29はより大きな損失を被ったかもしれない。
写真は、東京エリアの三鷹近くの工場に設置されていた『タチ-24』 の最初の、そしてほぼ完成したモデルを示している。
日本無線三鷹工場のウルツブルグ・レーダーの国産初号機のタチ24(制式名称:4式電波標定機)
【コメント】
ここでは国産化初号機の問題点として、「住友や東芝から供給されるはずのブラウン管などが、工場の空襲で入手できなかったことが主な原因で、一度も稼働することがなかった。」とあるが、日本電気が製造していた円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」の在庫があればと思うばかりである。
最後に、日本電気において、この円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」をウルツブルグに適用できなかった原因を考察する。
この理由としては、陸軍のウルツブルグ開発に対して、この円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」は海軍向けの電子機器である可能性が考えられる。
根拠資料として、日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋
第2節 国家統制への対応と住友通信工業への改称 p207
軍部による企業管理の進展
1943年10月31日に公布された軍需会社法は、後述のようにトップマネイジメントに大きな影響を与えた。そして軍部は、工場の管理にまで直接介入するようになった。翌44年1月17日の第一次指定で、主要な製造所、工場が軍需工場となり軍部の直接的管理下に入った。同年4月25日の追加指定によって、住友通信工業の全事業所が軍管理下に置かれた。
工場では、常駐した技術将校によって、「同じ建物の中を真ん中から分けましてね。こっちは海軍工場、そっちは陸軍工場」というような直接的な指揮・命令が行われた。また、生田の研究所においては、従業員が「陸軍関係者はR、海軍関係者はKの印のバッチを着けて区分されていました。私たち技術者は、陸軍の仕事もすれば海軍の仕事もしましたから、二つのバッチを持っていて、適宜使い分け(中略)、陸・海軍がおたがいの所管資材を侵されることを警戒して、資材の持ち分けには眼を光らせていた(中略)、Rの指令による実験と結果は、Kの試作には適用させない(中略)、技術についても、それぞれの持ち分を利用させまいという姿勢」であった。航空機・電波兵器増産が最優先されるなかで、一つの兵器生産計画があるのではなく、陸軍の計画、海軍の計画が実施される事態になっていたのである。
【コメント】
日本電気に常駐している海軍将校が海軍向け製品に対して、これを陸軍向けに許可をすることなど当時の状況ではありえないことは明らかである。
まず、この可能性が高いことから、日本電気としては陸軍向けの製品として提供できなかったのが実態だったのだろう。
次に、この円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」を海軍ではどんな電子機器に使用したのかを考えると、根拠資料として、日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋
第3節 軍需生産への転換と生産現場の混乱 p213
兵器生産の内実
パッシブソーナー(水中聴音機)の生産は沖電気株式会社と二分し、アクティブソーナー(探信儀)にも取り組んだ。
また、43年に制式化された九三式探信儀を生産し、その生産規模は月産30から50台になった。
【コメント】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの抜粋によると、
「三式探信儀はドイツ海軍で使用されていたS装置(S-Anlage)を参考にした聴音探信装置で、これは2つの磁歪式振動子よりなる送受波器と二組の映像器と特殊受振器を使用して目標艦船の推進器音より発生する超音波の到来方向をブラウン管上に表示し、さらに任意の時刻に探信を行い目標までの距離を測定するもので、1943年以降に急速に発達した。1944年(昭和19年)に三式探信儀二型が海防艦「千振」に装備実験され、極めて良好な成績であった事から駆逐艦、海防艦、商船などに急速に装備される事となった。」とある。
三式探信儀はドイツ式を採用したことから、ドイツ製の真空管やブラウン管が採用されている可能性が高く、この装置に円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」も採用した可能性が有力である。
しかしながら、三式探信儀二型の回路図を見る限り、円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」を使用している形跡はない。
したがって、日本電気がどのような電子機器にこの円形時間軸(円周走査)陰極線管「LB-2」を使用したのかについては、残念ながら言及することができなかった。
参考文献
「幻のレーダーウルツブルグ」昭和56年12月 津田清一著
日本海軍エレクトロニクス秘史 田丸直吉 昭和54年11月 原書房
東洋工業(株)『東洋工業五十年史. 沿革編 1920-1970』(1972.01)
Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radar, 1 April 1946
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14011031700、重点兵器生産状況調査表 昭和19年度(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120839800、電波器材 昭和19.12.26(防衛省防衛研究所)」
伊号潜水艦訪欧記 伊呂波会 2013年4月 潮書房光人社
A short survey of japanese radar
真空管物語
日本陸軍の火砲 高射砲 2022年12月 佐山二郎 光人社NF文庫
日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本土決戦 土門周平ほか 2001年5月 光人社