
敗戦後におけるGHQによる日本のレーダー関連調査に関する質問書と回答書(資料)

日本帝国陸海軍電探開発史 電探 陸軍電探開発史 電波警戒機 電波標定機 海軍電探開発史 電波探信儀 電波探知機 デジタル遺品
仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案の解説
仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案の原本を以下のURLにアップしているので参照願います。
仮称3式2号電波探信儀1型指示装置関係取扱説明書文字起し版
https://drive.google.com/file/d/1ZuLFWVJEEVx4ztteaYY94n_DZQjuuALo/view?usp=sharing
2式2号1型(Type2Mark 2 Model 1 )(21)レーダーの概要は以下のURLにアップしているので参照願います。
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022292.html
二号電波探信儀一型の概要(「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会の抜粋版)
この兵器(二号は艦上装備見張用を意味す)は、波長1.5米で艦船用として設計されたものである。
最初は測距塔と一緒に部屋が回転する方式のものが戦艦、航空母艦、重巡洋艦に整備された。
第3.25図は軍艦武蔵の測距塔に取り付けた二号電波探信儀一型の写真である。
次いで空中線装置のみ回転するものが完成して、軽巡洋艦及び駆逐艦に装備された。
第3.26図は優秀船橿原丸を、航空母艦に改装した隼鷹の艦橋に装備した二号電波探信儀一型の写真である。
その後更に対水上射撃に使用の目的で改良され、二式二号一型改二、改三及び三式二号一型が出来たが、いずれも本格的整備には至らなかった。
この系統の兵器は、三式一号電波探信儀三型(昭和18年10月頃)が出現するに及んで、小型軽便性に於いて遥かに一号三型に劣り、且つ性能もその割に優れていなかったため、一号三型に圧倒され、又対水上目標に対しては二号二型と競ったものであるが、性能上本質的には二号二型に及ばないもので、その寿命は二号二型が安定性を増し、実用価値を発揮するまでのものであり、これがために一号三型が出現し二号二型が改善かせられた後は、漸次整備の面から脱落して仕舞った。
但し既装備のものは終戦まで使用され、相当の効果を挙げていた。
※参考資料
海軍のレーダー区分
1号:陸上装備見張用
2号:艦上装備見張用
3号:艦船装備対水上射撃用
4号:陸上装備対空射撃用
5号:平面図形的指示器(PPI)付きのもの
6号:陸上装備航空機誘導用
開発時期と戦況の影響
昭和18年12月に仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案が海軍技術研究所で上梓され、昭和19年2月22日に海軍艦政本部第三課が受領し、それ以降に横須賀工廠造兵部へ提供されることになる。
その頃日本軍は、昭和十八年十一月末にマキン、タラワ、十九年二月にクェゼリン、ルオットを失い、さらに七月サイパンを失って、戦局は急速に緊迫の度を加えつつあった。
サイパンの攻防を繞って展開された「あ号作戦」で航空母艦三隻と航空兵力の大半を喪って帰投した艦隊を迎えた内地では、そのような情勢の中で、全艦に二号二型改一を装備するこことなったわけで、呉工廠が特急で装備工事を実施し、またその調整試験には技術研究所電波研究部がその総力を挙げてこれに当たり、関係者は六月二十六日東京から特別列車を仕立てて呉に向かうという状況であった。
レイテ沖海戦は、第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)10月20日から同25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台にして、日本海軍とアメリカ海軍及びオーストラリア海軍の間で交わされた一連の海戦の総称である。
連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだ決死の海上展開は「捷一号作戦」として発動された。日本海軍の艦隊戦力はこのレイテ沖海戦を最後にして事実上消滅した。
このような戦況において、仮称三式二号電波探信儀一型は昭和19年2月頃では実用化はされていたものの艦船のへの配備はされない結果となった。
それは艦船における二号電波探信儀一型の位置づけが明確ではなく、用兵側からの不用論もあったためである。
用兵側としては、二号電波探信儀二型(マイクロ波レーダー)の改良に力を入れており、基礎実験を終えたスーパーヘテロダイン方式の受信機を兵器としてまとめ上げ、なん回かの試作実験を繰り返した上で、遂に昭和19年の9月に本格的なレーダーとして二号電波探信儀改二を完成されたことにあった。
当時、「捷号作戦」に備えてシンガポール方面に集結していた全艦隊にこの器材を供給し、改造を行うことは大仕事であった。
岡村総吾技術大尉(現東大工学部教授)がその責任者に充てられ、部下二名を伴って九月二十七日羽田発の飛行機便で現地に進出、斎藤中尉と交代してその作業に当たった。
艦隊はこの改造作業中にシンガポールからリンガ拍地に移動し、間もなくブルネイに向けて作戦行動に移ったが、整備要員は任務を終了してシンガポールに引揚げ、どうにかマイクロ波レーダーを、日本海軍最後の海戦ともいうべき「捷号作戦」に間に合わせることができた。
※日本海軍初のレーダー射撃について(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』レイテ沖海戦からの抜粋)
レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した仮称二号電波探信儀二型改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の捕捉距離があり、また、大和を初めとする戦艦群は初めてといえるレーダー射撃をおこなっている。その性能は「まずまず信頼して使いうる程度」といわれているものの各艦ごとの評価にはばらつきがあり、戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」とある一方、戦艦金剛の戦闘詳報では「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」としている。戦艦大和でも、長距離で10m測距儀を上回る精度が記録されている。
一般的に、アメリカ海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっている一方で、日本海軍ではレーダー技術が遅れておりその性能は劣っていたと言われている。しかし一方で、初月や西村艦隊へのレーダー射撃(下記)を例に挙あげ、アメリカ海軍のレーダー射撃も命中率の高さが証明されていないという主張がある。前者の場合、初月単艦を撃沈するのに巡洋艦4隻を含む13隻の艦艇で、2時間もの時間を必要とし、巡洋艦だけで主砲弾1,200発を消費していることからレーダー射撃の正確さを疑っている。
但し、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08030036800、昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)戦訓抜粋(電波兵器)ではレーダー射撃に関する公式記録としての報告は何故かなされていない。
捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)(昭和19年11月11日)
https://blog.goo.ne.jp/minouta17/e/60da1ec9184cfb03210ddc576be286e7
仮称三式二号電波探信儀一型の特長
二式二号電波探信儀1型から三式二号電波探信儀一型への大きな改良点
(Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946からの二号電波探信儀一型の評価を基にしたコメント)
基本的には、装置自体を対空見張および対水上見張及び対水上射撃の両方に適合させるとともに対空見張能力の大幅な強化(三式一号電波探信儀三型と同等)をすることにあった。
周波数は従前の200メガサイクルのままであったが、送信電力は30キロワットに増加し、6から10マイクロ秒のパルス幅を可変にすることができた。
パルス繰返周波数を500に減少させた。
アンテナは「改造2」と同じだが、ローブ(指向特性)切換機能が追加されている。
改造4と5は、パルスの長さやレートなどの小さな変更を行うだけであった。
終戦時には、改造3以降の機器の艦上設置は完了していなかった。
解説
基本的にはパルス繰返周波数により探知機能の距離が決定される。
三式一号電波探信儀三型(13号)は、パルス繰返周波数が500で探知距離300km(※実際は帰線消去信号処理の時間約40kmを引いた260kmが実用探知距離となる)
二式二号電波探信儀1型(21号)は、パルス繰返周波数が1000で探知距離150km
二号電波探信儀二型(22号)は、パルス繰返周波数が2500で探知距離60km
捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)(昭和19年11月11日)の通信学校による電波探信儀能力の概要(※対空見張で大型航空機の探知での試験と思われる)
瑞鶴 13号 242km 21号 88km
日向 13号 170km 21号 125km
若月 13号 120km 21号 85km
この結果でも分るように、対空見張に関しては三式一号電波探信儀三型(13号)のほうが能力的に優れて居り、二式二号電波探信儀1型(21号)の不用の意見がでることも理解できる。
このため、三式二号電波探信儀1型(21号)では、13号と同じパルス繰返周波数500に変更するこことなった。
しかし、対空見張機能は強化したが、今度は対水上射撃の精度が大巾に悪化するため、射撃管制用の測距機に工夫する必要があった。
昭和18年当時の時代背景を考えると、用兵側としては依然艦隊決戦が主目的であり、対空見張も大事ではあるが射撃管制用レーダーの開発の要求も強かった。
しかも、二号電波探信儀二型(22号)は受信機のスーパーヘテロダイン化が完成する昭和19年9月までは動作不安定で安定運用が出来なかったことも、三式二号電波探信儀1型(21号)に唯一期待をかけることとなった。
このような背景をもとに、試作製作会社である東芝は、三式二号電波探信儀1型(21号)を対空見張、水上見張及び対水上射撃も大幅な能力強化した万能型のレーダー開発を目指した。
なお、東芝では昭和19年7月には、画期的な二号三型(波長五八糎)のパラボラアンテナの糎波水上射撃レーダーも完成させたが、有効距離が少し不足と云う理由に依り不採用となっている。
①ローブ(指向特性)切換機能による等感度法の測角測定方法
詳細は本文を参照してほしいが、まず重要なポイントとしては、「先ず空中線に取付けた切換装置より空中線集射方向を変えると同時に切換装置の発電板より正負の衝撃波を受けV401にてこの衝撃波を夫々正及負の衝撃波に分離する。」とある切換装置の仕様が不明であるが、aのアンテナとbのアンテナを切替装置が作動するとaからbの切換時の開始のaから切換終了時のbを正負のパルスとして表現しているもので切換え時間帯は受信も送信もできないことを意味している。
処理過程を図示すると以下の通りであるが、ポイントは切換時間の矩形波と掃引用の鋸波を横軸に注入するところにある。
角度受信機(セルシン機構):本機は陸軍のタセ1のものであるが、海軍でも同様のものが採用されている。空中線の回転電動機の機構に連動して測角データをセルシン機構で砲撃指揮所へ伝達する。
②ツーロン回路による精密測距方法
詳細は本文を参照してほしいが、まず重要なポイントとしては、測距技法として多くの測距機はゴニオメーターを採用しているが、本機はツーロン回路による移相調整器を採用している点が大きな特徴である。
この項の本文を以下に引用すると
この原理を使ってV101の翼板には0.12°(0.5km→※ハンドルを1回転すると0.5km進むという意味らしく、0.12°の単位は0.1kmである)変化するものが総計9ケ V102の翼板には1.2°(1.0km)変化のもの9ケ V103の翼板には12°(10km)変化のもの4ケ設け之等各抵抗は機械的に運動されてきて0.12°を変えて9段目より次の0項目となる時に1.2°が1段入る様にしてある。
以上のαを繰り返して1.2°の4段目迄運動で回転し得る様にしてある。
尚0.12°の軸より歯車にて連降して一回転500米の軸を出してセルシンの軸を結合し距離発信器を自動的に回転し得る如くしてある。
解説すると、原発信は500Hzの正弦波であることからこの波長600kmとなるが、この波を元としたレーダー波は反射を考慮したら測定距離は半分の300kmとなる。
これを水平軸に表示すると、横軸に300kmの水平線となるが、1波長を位相で考えると360°が300kmに対応することになる。
それでは、1.2°の単位はというと距離では1kmとなる。
この移相調整器では最大49,999m(誤差±100m)の距離をデジタル表示するとともに、砲撃指揮所へセルシン機構で同時にデジタル表示することができる
原発信の500Hzの正弦波からパルス繰返周波数500のパルスに変換してパルスを発信することになるが、反射波を120mmのブラウン管にこのまま表示すると帰線消去時間を差し引いた実質260kmの距離を水平軸に表すと、射撃用の50kmしか必要ないので、水平線の約20%しか利用できないこととなる。
逆に言うと画面の分解能が悪くなり、このままでは読取り誤差が大きくなることになる。
このため、横軸の掃引として正弦波から鋸波に直接変換せず、正弦波を直接掃引波とし、90°位相をずらしたものを基線消去信号としてヒーターに加えることで、結果として1000Hzの鋸波と同等の効果を得るように考案されている。
これにより、ブラウン管の画面では水平軸が実質130km(帰線消去を考慮)の中での50kmとなるから読取りが容易となる。
また、同時にブラウン管のグリッドに輝度変調することで送信パルス位置を輝点として光らせて同調を容易する仕組みも用意されている。
処理過程を図示すると以下の通りであるが、ポイントは移相仲介器なる移相調整器の仕組みと正弦波を鋸波として掃引する仕組みである。
測距機の本体部
移相仲介器
測距器の機構部
③東芝開発の新型真空管のH管の採用
東芝研究所長の濱田成徳氏のイニシャルから取った「Hシリーズ」が昭和18年(1943年)から生産されるようになった。
これは東京電気が全金属管を国産化したものの生産効率が悪くて海軍に納入するのに精いっぱいだったので、もっと量産の出来る高性能の真空管を開発することが要求されたためだった。
但し、電極間容量が問題となり、折角の高gm管としての性能を発揮出来なかった。
➃ブロック工法による生産性と保守管理の向上
仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案の最後の項に以下の記述がある。
(4)其の他
1.目盛較正は光学的目盛板が実距離とどの程度異なるかをたしかめるものである。
一サイクルが丁度 kmになっているのである。
2.ブラウン管は1500Vの高圧を使用しているから特に注意する必要がある。
3.本機は総てブロック方式として組立てあるため故障点検等にはブロックを抽出して補用品筐内の接栓を接続して外部にて点検可能なる如くしてある。
この本格的なブロック工法は軍用無線機器においては世界で初めての採用と思われるほど先進的な取り組みである。
このためブロックの背面部には本体装置との接合のための爪上の端子盤が用意されている。
このブロック工法により、製造もブロック単位で製造でき、試験もこのブロック単位で行うことができる。
しかも、艦上設置後の保守点検や故障時の対応も大変容易で、かつ保守用ブロック用品を用意しておけば故障ブロックを交換するだけで済むこととなる。
このようなブロック工法は米軍でも戦後のトランジスター型の無線機器でないと見ることはできない。
⑤東芝社史による軍批判について
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行)からの抜粋
終戦から昭和23年まで
終戦直後は前記のテレビ計画のように、文化国家の再建というような高度の希望もあったが、日時が経過するにつれて敗戦の現実が重くのしかかり、通信機製品の前途は、一部をのぞいてますます困難となった。
この困難にさらに拍車をかけたものに、太平洋戦争におけるわが国の電波兵器に対する不信があった。
これは国の誤った方針が技術や生産を破壊したものであるが、一般にはメーカーに責任があるように考えられ、日本の電子工業が劣等であるとの概念が世界に喧伝され、通信機工業の再起に大きな打撃をあたえたのであった。
試作製作会社である東芝が開発した三式二号電波探信儀1型(21号)や二号三型(波長五八糎)を昭和19年中期に整備しておけばレイテ沖海戦では違った戦局になったかもしれない。
残念ながら、東芝の努力は水泡に帰したことになる。
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会の抜粋版
(対水上射撃用電波探信儀)
海軍の対水上射撃用電波探信儀に対する要望は、戦争初期から一貫して非常に強かった。
しかしその要求性能は著しく高く、常に日本海軍がその性能を誇っていた前橋頂上の主測距儀と同等若しくはそれ以上なることを要求されていた。
即ち戦艦にあっては大口径砲の最大射程即ち40粁乃至50粁の距離に於て測的可能なること、その作動も測距儀と同等若しくはそれ以上に安全にして信頼性大なることが要求され、且つ重量容積に於ても相当過酷なな制限が附せられていた。
そのため本機の研究はまず有効探信距離を増大することを主眼としたが、中々にその要求を満たすに至らなかった。
しかるに昭和18年春頃から暗夜又は狭視界時に敵は電波探信儀を用いて射撃を加えて来ることが明らかになって来、これに由って急激に射撃用電波探信儀に対する要求の切実度を増してきた。
即ち有効距離よりも、測的精度及び操縦追尾性能の改善に重点を置くに至ったのである。
ここに於て2号1型に空中線切替装置を附し、2号2型には受信電磁ラッパを2個とし、これに切換装置を附し、左右切換を行う等感度方式として測角精度を向上せしめ、且つ精密測距装置を附して、測距性能を高め、有効距離を幾分犠牲にしたものを作った。
これらをまず戦艦大和に仮装備し、射撃用電波探信儀としての性能実験を行ったが、その結果、一部に改良を施すことに依り、実用可能との一部の結論を得、昭和18年末から昭和19年1月頃にかけ、急速整備の態勢を整えたのであるが、その後の研究の進展意の如く成らず、技術陣は大いに苦慮した。
2号1型は昭和18年末から19年1月にかけ、必死の調製実験が行われ、巡洋戦艦および重巡洋艦に整備を下命されたが、調整困難のためどうしても所期の性能を発揮できなかった。
しかしなお那智その外一、二の艦に対し、装備し実用を計ったが、暫くして整備中止を下命され、装備済のものも撤去復旧せしめられた。
2号2型系のものは、昭和18年10月軍艦大和に於ける実験に使用した切換方式が不完全であることが判り、早くも整備の線から脱落したのである。
参考文献
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行
仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案 海軍技術研究所 防衛省戦史資料室
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08030036800、昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)
真空管半代記 藤室衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』レイテ沖海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
戦時中の陸海軍「糎波レーダー開発」の課題と展望について
広島市の繁華街にある古本屋に入っていた時、ふとこの本を目にしました。
20世紀を生きぬいた ある技術者の光と影 大脇健一著からの抜粋
著者の大脇さんが戦時中に川西機械製作所に勤務されていた時の話ですが、
われわれも軍の研究に協力させられた。海軍は、海軍技術研究所で研究していたレーダー用の発振管、陸軍は、多摩研究所で行っていた殺人光線用の大出力磁電管の開発だった。
前者は主として私が、後者は前述の林清さんと藤本行一さん(東工大卒)の二人が主体になって、開発に努力するこことなった。それは、私が開発したZ-301(この当時世界で一番おおきな磁電管だった)という出力1.2キロワットの空冷式大型磁電管を、出力10キロワットの水冷式に作り換えることだった。
ここで大変興味が湧いたのは、戦時中の糎波レーダー開発のキーデバイスである磁電管(マグネトロン)の開発に川西機械製作所も関与していたという事実である。
戦時中に日本で実戦配備された糎波レーダーは海軍が艦船用の2号2型電波探信儀、陸軍が船舶搭載用のタセ2号の2機種しか存在しない。
しかも、使用された磁電管(マグネトロン)は日本無線株式会社が開発したM-312、M-60AマグネトロンとMP-15、ML-15マグネトロンの2組の磁電管しか実用化された記録はない。
このことから、日本のマイクロ波レーダーが進歩しなかったのは、日本無線株式会社1社のみの開発のため日本としての総合力が発揮できなかったのが原因だと思っていたが、実際は多数の大手電機メーカーが磁電管(マグネトロン)の研究開発・製造をしていたようだ。
しかしながら、結果として何故日本無線株式会社だけが糎波レーダーの開発をおこなったのか疑問が残る。
今回手持ち資料とネットの力で日本製の磁電管(マグネトロン)を使用した糎波レーダーの問題点について検討してみました。
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
E-13 Japanese Electronic Tubes https://drive.google.com/file/d/1ADlIAW1kl_9HfuzJ3D0EJVMB9Iivdd6K/view?usp=sharingの資料を提示する。
この資料では、川西機械製作所、日本無線、東芝の3社が主として磁電管(マグネトロン)の開発をしていることが判る。
また、別資料(アジア歴史資料センター)では昭和14年3月の日本電気玉川向工場監理管陸軍工兵少佐青柳登治の管理月報(3月分)からマグネトロンの納入事実もある。
ほぼ、日本の大手電機メーカーがキーデバイスである磁電管(マグネトロン)の開発・製造に関与していることが判るし、開発時期も日米開戦よりも前の昭和13年から14年には開始されている。
では、何故大手電機メーカー各社で糎波レーダーを開発して大きな成果として結実しなかったのだろうか。
課題1 メーカーの開発戦略の相違
1例としてあげると、東芝の社史に以下の指摘がある。
「これは機器内に使用する真空管は極力同一規格の三極管を用いるもので、操作保守を能率的かつ簡便にするには極めて有効な方式である。
もちろん三極管で超短波を発振することには、構造的にも周波数の限界があるが、当社では極力この方針を推進して、戦争末期に当局から磁電管の製作を要請されるまでこの方針を貫き各種の特色ある兵器を完成した。」
このようなことから、東芝では磁電管(マグネトロン)によるマイクロ波レーダーには積極的に取り組みしなかったことが判るが、大手電機メーカーである日本電気、川西機械も同様な会社経営層の判断があったのかも知れない。
たしかに、メートル波のレーダー開発に比較して、糎波レーダーには技術的リスクが高かったのも事実である。
また、軍の糎波レーダーに対する開発方針も明確ではなく、製造メーカー伝える努力もしなかったかもしれません。
課題2 磁電管(マグネトロン)の殺人光線としての過度な応用開発への傾斜
もう一つの観点としては、磁電管(マグネトロン)をレーダーとして使用する目的ではなく、所謂、殺人光線として超大出力マグネトロンの研究開発に要員・資金を投入した事実がある。
特に戦局が不利となると神風として、超大出力マグネトロンの出現を夢みることとなる。
第二海軍技術廠牛尾実験場、第9陸軍技術研究所(通称:陸軍登戸研究所)で開発・実験がなされたが、当然であるが実用化の目途は立たなかった。
結果、磁電管(マグネトロン)の本来のレーダー開発が阻害される大きな要因となった。
課題3 マネージメントとプロジェクトリーダーの在り方
これに関連した下記の資料を紹介する。
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二からの抜粋
第四節 物理懇談会とは(原子爆弾と強力電場の真相)
二.強力電波の始末記
国防技術として本研究を強引に推し進めようと海軍が企画し、決意したその責任の大部分は筆者(伊藤庸二)にあった。
今静かに戦争の当時をかへりみる。果たして本質的に非なりしや、時間的に非なりしやと。
科学の未来は何人にも予見し得るものではない。併し電子技術の趨勢から推せば、本研究は磁電管の当然歩む可き道を歩んだことになるのであり、怪しむに足らない。之は何人も認めるところであろう。只問題は「此の時機に此の目標で」と云う話にあった。面も之が国防技術としては本質問題なのである。
古人は曰(い)う、「時務を知るは只俊傑にあり※」と。痛烈な此の話の教訓が容赦なく今筆者(伊藤庸二)を鞭打つのである。
この事例でも分るように、海軍のマネージメント階層であるレーダー開発の責任者が伊藤庸二氏のような学究肌の研究者であれば、戦略目標としてのレーダー開発のプロジェクトが進むとは思われない。
人材の適材適所と人事評価が機能していなかったことも大きな問題の一つである。
しかも、陸軍では海軍の開発動向をみて単に対抗して無駄な開発投資をおこなったのではないだろうか。
実際には日本無線株式会社が製造した最優秀であるM-312、M-60Aマグネトロンをベースに陸軍・海軍が使用目的別の糎波レーダーとしての完成度を各社メーカーが競い合えばいいことであり、軍は如何に完成度の高い糎波レーダーを製作するための各社技術情報の提供する立場に立脚することが肝要である。
要は、プロジェクトリーダ―は軍組織のような官位を持たない民間人に任せる必要がある。
軍はマネージメントに徹して、要求仕様を提示、民間各社の技術情報の収集と提供と生産資材の確保などの明確な作業分担が必要である。
以下、当時の海軍の糎波レーダーへの本来対応すべき技術要素を示す。
・PPIの採用
・導波管の検討(円形から方形へ)
・空中線の改良(電磁ラッパからパラボラアンテナの採用)
・精密測距方式の検討
この中でPPIの採用についての問題点を以下に示す。
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二からの抜粋
第一節 電波探信儀
敢えて、又話は前にもどるが、軍艦伊勢、日向への電探装備実験の時の事である。実験委員会の中に前述の高柳健次郎氏が居られたが、氏は此の時一つの着想を筆者(伊藤庸二)にもらされた。それはPPIの考え方であったのである。
PPIと云えば今レーダーを云々する人は誰でもうなづける。併し、当時としては真に新しい着想であった。それを一口に云えば、電探を以て地形図を描かせる構想であった。此の高柳氏着想は真に基本的なものであった。之とは又無関係に軍艦日向のその時の副長馬場正治氏が同様の着想を私(伊藤庸二)に示された。
それから2年余り後の事である。撃墜されたB29から取り外した飛行機用電探に高柳、馬場両氏の着想を実現する装置が発見されたのだ。そして、いまの電探と云えば民需用のものは悉くが此のPPIである。両氏の着想は真に基本的な着想であったのだ。
ところで、何故に此の発明が日本では延びなかったか。種は既に蒔かれて居たではないか。其處には遺憾な理由が多々あった。それは飛行機用見張用の21号電探も、水上見張用の22号電探も、当時のものでは直ちに「武人の蕃用」には堪え得なかったし、特に22号はそれからしばらくの間、不安定と云う本質的な疾患があった。更に射撃に用う可き各種電探の急速完成等。その日その日の戦闘に対する対策に昼夜も分たず努力せざるを得なかった電波兵器研究陣には、此の着想は猫に小判、豚に真珠であったのである。思えば不甲斐ない極みではあった。
戦いは終わった。平和は再び帰って来た。日本の文献にも特許にも現れてをならぬ此の両氏の着想が今は新しい文明の利器として平和産業に用いられつつあるのである。此の事実を思う時、筆者は限りない責任感におそわれるのである。今此處に敢えて事実を述べて、且つ両氏に対する贖罪の一端とし度(たくし)い。
このことからわかるように、軍の伊藤庸二氏はマネージャーとプロジェクトリーダーの兼務であり、PPIの開発を指示できる立場にいたことになる。
敗戦後、反省されてももう手遅れなのである。
課題4 民間会社の軍の支配
海軍技術研究所、陸軍技術研究所の軍人(高等官)が中途半端に技術が判り、メーカーをコントロールしようとしたことに問題があったのではないか。
極端な例であるが各社電機メーカーでは、陸軍と海軍用の開発・製造組織が独立しており、組織間の技術交流も禁止されていた。
また、工場には工場監理管の軍人が常駐しており、工場を監視し常に生産状況の監視・監督を行っていた。
結局、メーカー各社は、人材、資材とも陸軍(地上と航空機)・海軍(艦船と航空機)用に4重投資していたこととなる。
軍の工場支配の最終形態である軍需省が1943年(昭和18年)設置されるに伴って、同年10月公布(12月施行)された軍需会社法によりメーカーの独立性はなくなった。
丸 平成9年7月号 機上索敵レーダー「タキ-1」開発秘話からの事例を示す。
日本無線株式会社技師三佐保忠之氏の手記よりの抜粋
これが昭和18年6月多摩研が開設され、「タキ-1」と名付けられた機上索敵電探開発の始まりだった。当時はレーダーに関する資料は何もなく、軍より仕様書も提示されず、何をどうしたら良いのか、全くわからなかった。
無我夢中の状態で、真空管はどれを選ぶのか? 飛行機に搭載するには、アンテナの指向性を考慮に入れなければ、波長は短くしなければ・・・、パワーは出したい・・・
とにかく、どの位のものができるかやってみよう、という手さぐりの状態だった。
当時の日本無線技術部は3課に分かれており、技術第一課は民生器、技術第二課は陸軍、技術第三課は海軍関係と分類され、その他に研究課すなわち基礎研究に従事するグループがあった。
二課と三課の技術者の交流は全く無く、付けているバッジの色も違っており、他方の課内に立ち入る事はできず、相互に何をやっているのか全く分からない状態だった。
この頃、「タキ-1」に相当する海軍機に装備された索敵用電探「H-6」は技術三課で開発・改造がおこなわれており、ほぼ完成の域に達していた。
第二課は栂村善近課長、岩井亭主任以下訳250名のメンバーであり、この内の約20名が、多摩研三鷹分室に席を移して「タキ-1」や「ウルツブルグ」などの研究・開発に従事した。
・・・一部省略・・・・
私は海軍航空技術廠実験部に押しかけて海軍側の電探(仕様、部品、運用等)調査をおこなった。当時の陸海軍の壁は厚かったが、空技廠の辻田海軍技術少佐は苦笑しながらも面談して、指導してくださった。
辻田海軍技術少佐のご厚意で海軍の大艇に同乗させてもらい、小笠原の父島付近まで飛んで実際に海軍の電探の使用状況を見せてもらった。
以上でわかるように、日本無線株式会社内の第二課と第三課で同じ使用目的の機上索敵電探を別個に開発することとなるが、先行しているH-6を陸軍機用に改良するだけの話であるのだが・・・。
この結果、陸軍のタキ-1は総重量150kg、一方海軍のH-6は110kgと少し軽量である。この重量差で陸軍では運用する航空機がキ-67(飛龍)などの大型機に限定されることとなった。
なお、海軍のH-6は大量生産されて2座以上の航空機での索敵業務に活躍するこことなる。
この事実から、糎波レーダーである海軍用の2号2型電波探信儀と陸軍用のタセ2の開発・生産も日本無線株式会社内の第二課と第三課と別々に行われものと思われる。
特に、糎波レーダーのキーデバイスである磁電管(マグネトロン)においても日本無線株式会社が開発したM-312、M-60Aマグネトロンが海軍用、MP-15、ML-15マグネトロンが陸軍用として使用されている。
なお、陸軍用のタセ2の生産については、日本無線株式会社が60台、東芝が20台であるが、東芝の社史のとおり、戦争末期に当局(陸軍)から磁電管(※東芝が製造した記録は確認できていない)の製作を要請されたという文面と一部符合する。
ここまで否定的な論調となったが、展望として最後に糎波レーダーの成功例を2点示す。
展望1
ひとつは海軍大型航空機「連山」用の5号電波探信儀1型(51号)は、実用化試験中に敗戦となった。
航空機搭載用の糎波レーダーで、空冷のM-312マグネトロンを使用したPPI方式を採用していた。日本無線株式会社が総力を挙げて開発したもので、社史でもその成果を誇らしく掲載されている。
日本無線株式会社の1社でこのような成果がだせるのであれば、東芝や日本電気などの大手電機メーカーもこの糎波レーダーの開発分野に参加していれば、局面はまた違った展開になったのではないだろうか。
展望2
もう一つは純民間メーカーの研究所での研究成果を示します。
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
E-13 Japanese Electronic Tubesからの抜粋を示す。
Ⅲ. 当社が実施したマグネトロン研究の課題(H.今井)
A. 糎波マグネトロン仕様
(1)5cm
Ep・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10,000V
Ef ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11V
B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1000ガウス
If ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.4A
ピーク出力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3kw
最大プレート放熱量 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100w(自然冷却)
マグネットポールギャップ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 5/16w
全長 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6w
(2) 3cm
Ep・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12,000V
Ef ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11V
B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・800ガウス
If ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.6A
ピーク出力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1kw
最大プレート放熱量 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30w(自然冷却)
マグネットポールギャップ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 5/16w
B. センチメートルマグネトロンを用いた装置 -
これらのマグネトロンを用いて、通常の50kmの範囲だけでなく、15mまでの非常に短い距離にも応用できるPP1に関する基礎研究を行った。
後者は、盲目着陸や霧の中での編隊飛行の際のパノラマビューの確認に特に重要である。 このような用途に必要なシャープなビーム、回転するラジエータのサイズが小さく、パルスの持続時間が非常に短いことから、以下のような装置を目指しました。
(1) 発振器: 5cmマグネトロン(後に3cmマグネトロンに置き換わった)。
(2)フィーダー: 送信と受信に共通の矩形波ガイド。 バルブ出口と回転機構で部分的に使用されている同軸パイプ。
(3) 放射器: 放物面鏡の焦点にある空洞共振器の片面にある分割アンテナ。
4)変調器: パルス幅は近距離で0.005ms、長距離で2msである。
(5) 受信機: 混合器、鉱石検波器。
局部発振器速度変調管。
I.F.中間周波数150MC/S。
バンド幅40MC。
(6) 表示器:
(a) ブラウン管、回転ラジアルスイープ。
(i) 繰り返し周波数 短距離用80kc/s、長距離用3kc。
(ii) 回転周波数。 鏡面回転に同期して約10kc/s。
(b) PPIの他にも、上記の原理を応用して、船舶や潜水艦のペリスコープ用の高度な検出器を得ることを目的としている。
(c) PPI表示器 第2項で述べたPPIには、通常の直径12インチのブラウン管(陰極線)を使用したが、これは蛍光時間が長くなるように特別に設計されたものではなかった。 このような専用設計のブラウン管は、当工場ではまだ量産されておらず、ミラーの回転速度は10C/Sと速く、機械設計の観点からはそれほど難しくないように思われた。 そこで、回転ラジアルスイープを発生させるために広く使われているセルシンモーターの代わりに、光学電気方式を採用した。 その原理は以下の通りである。
(i) 2組の光源とそれに対応するフォトセルは、回転鏡(アンテナ)シャフトに垂直な平面内で互いに垂直に設定されている。 シャフトには2つのカムが取り付けられており、それぞれ対応する光ビームをシャフトの回転に応じてカットして、フォトセルに正弦波を生成する。シャフトが回転速度にかかわらず、生成される波の位相が正確に90°異なることは明らかである。
(ii) これらの波で繰り返し周波数を変調し、キャリアの繰り返し周波数を個別にキャンセルすることにより、2つの変調積電圧が垂直偏向板と水平偏向板にそれぞれ供給され、目的の回転パターンが得られます。 セルシンモーター(80 kc)の問題とは対照的に、繰り返し周波数を簡単に選択でき、検出器の周りのすべての方向で検出される物体の画像をブラウン管で一目で見ることができる。
(d) 電波探知機でインパルス方式を用いた場合、山のような固定物体の有害なイメージを指示器から排除することはできない。 しかし、ドップラー効果を適用すれば、高速で移動する物体だけを検出でき、さらにその物体の絶対速度を測定することができる。 後者のデメリットは、ノイズのない安定した高出力の連続デシメータ波を得て、直読で距離を測定することが難しいことにある。 この報告書の筆者である今井氏のもとで苦労して開発された電波探知機の概要は次の通りである。
波長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20cm
送信機・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12分割マグネトロン(空冷式)
アンテナ出力・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150W(連続)
検波器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水晶
放物面の直径・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2.5 メートル
測距システム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・F.M.
有効距離・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中型爆撃機では25km
B-29では40キロ
なお、本電波探知機(ロケータ)が実際に使われるようになったわけではない。
この論文だけでは、会社名(筆者:H.今井)が不明であり具体的な詳細内容を把握するのは困難であるが、このようなレーダーは軍の記録(仕様)はなく、民間メーカー独自の糎波レーダーの研究と思われる。
具体的な機能としては、方形導波管、PPIやドップラー効果によるMTIの原理(Moving Target Indication固定反射消去)を採用している。
どこまで実用化されたのかは不明であるが、やはり民間の自由な研究の中に活路があることは言うまでもない。
昭和14年3月調 管理月報 日本電気株式会社玉川向工場擔住 監理官陸軍工兵少佐青柳登治
参考文献
20世紀を生きぬいた ある技術者の光と影 1991年(平成7年)7月 大脇健一著
四国新聞社 http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20010405000120
日本電気株式会社玉川向工場 アジア歴史資料センター、リファレンス番号:C01004721100
丸 平成9年7月号 機上索敵レーダー「タキ-1」開発秘話 三佐保忠之
E-13 Japanese Electronic Tubes https://drive.google.com/file/d/1ADlIAW1kl_9HfuzJ3D0EJVMB9Iivdd6K/view?usp=sharing
2号2型電波探信儀 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022293.html
タセ2 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022281.html
5号電波探信儀1型(51号) http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022305.html
川西機械製作所 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/01/09/163652
日本無線株式会社 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/01/09/163220
東京芝浦電気株式会社 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/01/09/163408
雲上より日本都市を狙ふ B29の電波暗視機? 電波科学 (昭和20年2月号)
電波兵器の種類
今次戦争と共に現出し一躍時代の寵児となったものは電波兵器である。
その電波兵器として最も基本的な電波警戒機(Radio Detector)及び電波標定機(Radio Locator)は、捕獲した米英の兵器を例として既に常識程度に迄知られているが、電波兵器として挙げるものの種類を一応列挙して見ると次のようになる。
1.地上用電波警戒機
2.地上用電波標定機
3.機上用電波警戒機
4.機上用電波標定機
5.電波暗視機(地形判別機)
6.電波探索機
7.電波妨害機
8.電波誘導機
9.友軍識別機
勿論これは単に便宜的な分類をしただけの話で、何等絶対的な根拠を有するものではない。
ここで警戒機とは主として敵機又ハ敵艦隊の発見を目的とするもので、一方比較的近距離に於ける敵の位置を正確に標定する目的とするものを標定機と称することとする。
地上と機上とにわけたのは、後者が前者に較べ遥かに縮小なることを要求するからである。
電波探索機とは敵電波兵器の電波を探索してこれを方向探知等に逆用しようとするもの。
妨害機は積極的に妨害電波を発射して敵電波兵器を妨害せんとするもの。
誘導機は主として悪天候時、又は夜間に於ける邀撃戦等に於て友軍戦闘機を敵機近くまで誘導するもの。
友軍識別機とは読んで名の通り、彼我の識別を興へるものである。
電波暗視機とは、又地形判別機とも称し、主として悪天候又は夜間に於ける航法或は爆撃に使用せられる。
即ち地形指示のブラウン管映像面を使用し、地形地物を平面的に現示せしめんとするものである。
電波暗視機とは
電波暗視機は現在、まことに電波兵器の花形とも講ずべく、あらゆる電波兵器の技術の総合として考えることが出来る。
これが完成すれば当然地形地物の判別以外に、通常の警戒機、標定機の機能をも具備し、夜間の探索及び爆撃等も可能なることは論を待たない。
元来極超短波の反射は地表面上の物質により、その状況を異にする。
海、湖、河川等水面よりの反射と、山岳、森林、都会地等陸地よりの反射とは全然違っている。
従って飛行機上より極超短波を発射し、同時に空中線をも回転せしめて、自機の四周よりの反射波を受信し、これを映像面上パノラマ式に現出せしめれば、恰も地上を俯瞰するかの如き映像を結ぶことが出来るハズでる。
然して実際問題として、英米が現在実用している3乃至4糎程度の波長及び現用のブラウン管を以てしては、空中写真を見る如き精密な地形地物の判別は不可能であり、これが判別利用の域に達する迄は相当の熟練と、準備的研究が必要である。
技術的観点に立つと、波長3乃至4糎程度の送受信機が最も問題となる。
発振管にも磁電管を使用し、速度変調管其の他の特殊真空管を使用することが必要になって来る。
而して飛行機上に搭載する為に全体としての容積重量の軽減は又看過し得ない問題である。
空中線は現在の處、英米共に回転放物面反射鏡を有するタブレット又は導波管を360度一定速度で回転せしめている。
かくしてブラウン管上に現出せしめるのであるが、羅針盤とこの機構に依り方位を正確に指示し、或は米の誇るノルデンの照準眼鏡のように自動探知機と連動して爆撃進入時の飛行制御を行う等、或は又測距装置、距離間隔の切換等細部に亘って種々と難しい問題が多いのである。
英米の電波暗視機
英国では早くからロッテルダム装置と称して、対独爆撃に際して偵察機が必ずこれを装着して先行している。
米国では英に少し遅れたが、最近得るところによれば例の本土空襲のB-29には各機にもこれを装備して来ているらしい。
写真で見ると主翼の胴体貫通部の下にお椀状のものが見えるが、これは明らかに空中線を貨した覆いでなければならない。
米国では一般に電波兵器のことをレイダーと呼ぶが、最近はレイダーに恰も電波暗視機特有の諸用とさえ解され勝ちである。
その性能が如何なるものか、深夜帝都に侵入するB-29が海中に投弾すること度々なるを見るとき、必ずしもその性能怖るべきものならざるを知ることが出来る。
第2図は伯林市街のロッテルダム実況図である。
これは各部分部分のロッテルダムによる写真を集め、平面図的に作ったもので、第3図はそれを幾分修正したものであろう。
孰れも独軍の手に落ちた英国の携行資料である。
第4図はロッテルダムの指示機を示す。
B-29の有するレイダーも概ねこのロッテルダムに依り想像可能のことと思うふ。
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電波を利用した兵器はこの点にも粛々考えることが出来る。
電波高度計などは最も古くから、また最も常識的に考えられて来たものである。
特に低高度用の精密高度計が出来れば、暗夜の超程度雷撃、盲目着陸等の問題は殆どすべて解決されるのである。
一般無線航法も、将来は単なる方向探知のみならず、更に合理的或は信頼度高き航法器材の現出を当然予想せねばならない。
将に戦争は電波の決戦である。
今回は特に電波技術の最先端を行く電波暗視機地形判別機の全貌を紹介した次第である。
出典
電波科学 (昭和20年(1945年)2月号 「雲上より日本都市を狙ふ B29の電波暗視機とは?」