日本帝国陸海軍電探開発史

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2019年10月

敗戦後におけるGHQによる日本のレーダー関連調査に関する質問書と回答書(資料)

基礎資料については、アジア歴史資料センターから2点について紹介します。
有末機関報第453号 日本ノ対空警戒組織ニ関スル件 質問書(昭和20年11月22日)
爆撃調査団関係 陸軍調査部質問書(其16)回答(昭和20年11月20日)

終戦後も、陸軍省、海軍省の組織はそのまま存続し、連合国の進駐軍の対応を行っています。
本文書の回答文に昭和20年11月20日の日付に日本陸軍省の名前で回答しています。
それでは何時、旧軍組織は解体したのでしょうか。
答えは、ウィキペディア(Wikipedia)』第一復員省からの抜粋
Establishment_of_First_Ministry_for_the_Demobilized

 
第一復員省(だいいちふくいんしょう)は、1945年(昭和20年)12月1日に設置され、1946年(昭和21年)6月15日に廃止された中央省庁で、陸軍省が改組されたものである。後に第二復員省(旧・海軍省)と統合して復員庁となった。

今回は敗戦後におけるGHQによる日本のレーダー関連調査として米軍の爆撃調査団による日本軍の軍事関係に対する質問と日本側の回答の一部を手持ち資料とネットの力で整理してみました。
なお、質問と回答は別々のもので日時も前後していますが、米軍が何に興味を示しているかがよく分かる資料です。
日本が逆の立場であれば、このように敗因の原因をここまで追求することはなく、ただ勝ったら、負けた側の要因分析などするのか疑問があります。
しかし米国のように常に負けないために軍事力強化を今日までし続ける事になんの意味があるでしょうか。
とても国民に幸福があるとも思いません。
米国もローマ帝国や大英帝国のように、いつかは衰退を迎えます。


有末機関報第453号 日本ノ対空警戒組織ニ関スル件 質問書(昭20.11.22)
有末機関報第453号
主責任課 参本残務整理部第一部班 航本総務課
日本ノ対空警戒組織ニ関スル件
11月22日
連合国最高司令部発、陸海軍東京連絡委員長宛
日本ノ対空警戒組織ニ関スル附属質問書ニ対シ完全ナル回答ヲ昭和20年11月29日迄ニ当部ニ提出スベシ
依命
一、日本ノ対空警戒組織ニ依リ利用セラレタル情報源
1.敵ノ航空機、船舶、潜水艦ノ近接ヲ判定スル為早期ノ電波探知機(early warning radar)ノ他ニ如何ナル情報源ヲ利用セシヤ
【監視哨、音響判定、通信傍受、電波暗視機傍受(radar intercept)、I.F.F.傍受他】
2.電波暗視機以外ノ情報源ヨリノ情報ハ如何ニ評価セラレ伝達セラタルヤ、地理上の位置如何 組織ハ如何ナルモノナリヤ
3.対空警戒情報ノ回集並ニ伝達機関ハ如何ナル地理的場所ニアリヤ
4.無線傍受ヲ行ヒアリトセバ、之等情報ハソノ中ニ含マレアル情報ソノモノニ対シ価値アリシヤ又ハ作戦上早期ノ警戒ノ為ニ価値アリシヤ
5.或ハ一定時点ニ於テ行動中ノ監視船ハ如何程ナリシヤ
6.監視船ハ如何ナル地域ニ行動セシヤ、ソノSOP(?)ハ何ナリシヤ
7.監視船ハ如何ナル方法デ如何ナル組織ニ対シソノ報告ヲナセシヤ
8.監視船中電波暗視機ヲ装備セルモノ、数ハ如何なる電波暗視機ヲ装備セシヤ
9.貨物船又ハ軍艦ガ監視船トシテ就役センコトアリヤ
10.20メガサイクル(20Mc)ノ電波暗視機ノ存在ニ対スル証拠アルヤ ソノ性能、備附場所、如何ナル目的ニ使用セシヤ
11.日本国内放送ニ於テ連合空軍ノ空襲中、友軍機及敵機ノ位置放送ノ情報源如何 友軍機ト敵機ノ識別方法如何
12.早期警戒情報ヲ入手スル為連合国ノI.F.F.ヲツリ出ス(trigger)何等カノ方法ヲ講ゼンコトアリヤ 如何ナル装備ヲ有シ何處ニ位置シ、ソノ成果如何
13.南方諸島ノ列島中日本軍ノ占領セル島嶼ニ於テ昭和20年7月10日ニ於テ操作シアリシ電波暗視機ノ種類及び数如何
14.「ロタ」トノ無電通信ハ何時途絶セルヤ、「パカン」トハ何時ナリシヤ
15.日本ノ対空警戒組織中ニ於テ「ロタ」ニ対スル目視ニヨル偵察ガ如何ナル重要性ヲ有シアリヤ

二.警戒機ノ数及ビ配置
1.製作サセシ各早期警戒用電波暗視機ノ数量ニ関シ利用シ得ル情報如何、将来ノ生産計画如何
2.音響探査装置ノ製作数如何、ソノ配置並ニ使用ニ関シ採ッタル方針
3.早期警戒用電波暗視機ノ陸海軍ヘノ割当ニ対シ存セシ原則如何 原則ノ変更中顕著ナルモノ
4.早期警戒用電波暗視機ノ地理的配置ニ対シ適用サレシ原則如何時ノ経過ニ従ヒ如何ニ変更セシヤ
5.本州ノ海岸線ニ於ケル早期警戒用電波暗視機ノ百里毎ノ平均備付数ニ関シ利用シ得ル情報
6.本州海岸ノ一地点ニ於テ若クハソレ以上ノ電波暗視機ガ存セシ理由如何
一例 潮岬、大王埼、御前崎、名古屋ノ南西半島
7.海岸線ヨリ25里以上ノ地点ニ備付ケラレアリシ早期警戒用電波暗視機ノ数如何、若シアリトセバイカナル理由デ国内電波探知機(inland radar)ヲ使用セサリシヤ

三.日本ノ対空警戒組織ノ編成
1.電波暗視機其他ノ情報源ヨリノ早期情報ガ中央ノ情報審査募集機関ヲ通ジ空軍、高射砲等ノ作戦上ノ利用に至ル経路ノ地理的並ニ編成上ニ於テ示セ
2.海軍ニ依リ得ラレタル情報ヲ陸軍ニ又ハ陸軍ノモノヲ海軍ニ提供スル為ニ如何ナル規程アリシヤ
3.日本ノ対空警戒組織ハ如何ナル地理的主ニ編成上ノ区分ニ分割セラレアリシヤ
4.横須賀海軍防衛司令所(Yokosuka Naval Defense Command Post)ノ位置ハ何處カ、ソノ位置ハ変更セルヤ ソノ編成ノ大ナル如何 ソノ任務如何 全様ノ陸軍ノ司令所アリシヤ
5.電波暗視機ニ対スル訓練学校ハ何處ニアリシヤ 昭和20年7月迄ニ訓練セシ電波操作手(operator)ノ数、将来ノ訓練計画如何
6.対空警戒ニ関スル報告ヲ審査シ無価値トナシ重複セル報告中シテ敵機ト友軍機トヲ判断スル為ニ採ラレタル方法如何
7.電波暗視機ニ依ル情報ハ目視監測又ハ音響探知ニ依ル資料ト協力セラレタルヤ
8.日本ノ国内放送ハ如何ナル組織又ハ情報審査機関(filter center)ト連絡シ居リシヤ、連絡ハ電話ニ依リタルモノナリヤ、又ハ放送員ガ情報審査機関又ハ募集機関ニ立会シタルモノナリヤ

四.日本ノ対空警戒組織ノ活動
1. 日本ノ対空警戒組織(早期警戒用電波暗視機、目視監測、音響探知、其他等)ノ最初ニ編成セラシハ何時ナルヤ
2.空襲ニ際シ一般公衆ニ適切ナル警戒ヲナサシムル為、日本ノ対空警戒組織ハ如何程有放ナリシ
3.空襲ガ夜間ナル場合、都市ヲ暗黒ナラシムル為充分ナル警戒ガナシ得タルヤ
都市ニ対シ暗黒ナラシムル様指令ガ発セシレタルヤ若シナラシズトセバソノ理由如何
4.商業用放送局及び日本国内放送ハ送話機(Transmitter)ガ変更スル(turn off)如ク指令セラレタルヤ、若シナラシズトセバソノ理由如何
5.警戒警報又ハ空襲警報ノ際ニ公衆ニ興ヘラレタル指示如何、公衆ハソノ指示ニ従ヒタルヤ、公衆ノ態度ハ時ノ経過ニ伴ヒ変更セシヤ、若シ然リトセバソノ理由如何
6.日本ノ早期警戒電波暗視機ニ対スル僞騙スハ妨害ヲ最初ニ認メタルハ何時ナルヤ
7. 僞騙ヲ如何ニ認メシヤ
8.カール僞騙ヲ無効ナラシムル為、採ラレタル対策アリタルヤ、カール対策ハ時ニ応ジ変更セシヤ、之等ハ有効タリヤ
9.帝国ニ於ケル早期警戒用電波暗視機ノ最初ニ連合国航空機又ハ艦船ニ依リWindow又ハRope其他ノ妨害反射装置(confusion reflector)ヲ認メタルハ何時ナリヤ
10.之等ノ妨害反射装置ガ実際ニ使用セラレル以前ニ之等ヲ気付ク可能性アリタルヤ
11.妨害反射装置ヲ航空機、艦船、潜水艦ヨリ区別スル為ノ対策ガ取ラレタルヤ、ソノ結果ハ成功セルヤ、時ト共ニソノ対策ハ如何ニ変化セシヤ
12.帝国ノ早期警戒用電波暗視機ノ最初ノ電子妨害(electronic jamming)ノ経験ハ何時ナリシヤ
13.如何ナル型式ノ妨害暗号(jamming signal)ヲ採用シタルヤ、暗号ハ変更セラレタルヤ、如何ニシテ行ハレタルヤ
14.早期警戒用電波暗視機ガ電子的ニ妨害セラレタリトセバ電波暗視機ノ有効性ノ現象ニ関シ真剣ニ対応セラレタルヤ、ソノ理由如何
15.早期警戒用電波暗視機ガ妨害セラレタル場合、妨害系統ヲ知得スル為努力セシヤ、ソノ成果如何
16.早期警戒用電波暗視機ノ一操作所ガ電子的ニ妨害ヲ受ケアリ時又ハ妨害反射片ノ目標トナリアル時、早期警戒用電波暗視装置所ノ資スキ標準的走査規程ガ発セラレタルヤ
17.1式3型(MarkⅠModel3)1式2型(MarkⅠModel2)又ハ他ノ150メガサイクル早期警戒用電波暗視機ガ連合国I.F.F.ヨリノ通信ヲ受信シ得ルコトヲ認メタルコトアリヤ、コノ通信ヲ早期警戒用電波暗視機ノ限度ヲ広ク張ルタルム利用セシコトアリヤ
18.昭和20年1月27日以前ニ行ハレタル連合軍第21爆撃機団ニ依ル電波妨害ハ有効ナリシヤ
19.昭和20年5月29日以後来襲ノB29ニ対スル早期発見ハ減少セザルヤ、兵力判定陸地到着予定時刻ノ推定ニ関シ以前ヨリモ困難性ナカリシヤ、ソノ理由如何
20.目視監測ニ依ル国内監視哨ヨリノ報告ハ電波暗視機ノ報告ト同様信頼シ得タルヤ、左様音響探知ニ就テハ如何
21.日本側偵察用航空機又ハ潜水艦ヨリノDF暗視機ノ位置ヲ傍受セントスル我方ノ努力ヲ知リ又ハ疑ヒヲ持チタルコトアリヤ、如何ナル暗視機ガDFノモノヲアツタカト考フルヤ、コノコトヲ知リソノ方針ニ何等カ影響アリタルヤ
{軍務課註}
一.訳文中左ノ語就モ意味不明ナルニ付、目下陸運ヲ通シ照会中ナリ
I.F.F.、SOP、DFRadar
二.訳文中「電波暗視機トナシアル」ノ原文ノ(radar)ノ訳ナリ

五.日本ノ対空警戒組織ノ日本空軍ニ対スル作戦上の関係(後刻配付ス)
1.某施設ヨリ某航空部隊(行動中)ニ対シ警報又ハ戦闘機指揮ニ関スル情報ノ伝達(流し)要領ヲ摘出詳記セヨ尚右ハ陸海軍ニ就キ指揮関係ト地理的関係ヲ明ニスルモノトス
2.地上ヨリスル日本戦闘機指揮ハ如何ナル範囲(extent)一命令セラシタリヤ、如何ナル地域ニ本法ハ何時初メテ実施セラレタリヤ
3.昼間並夜間戦闘機ニ対スル指揮手段如何、戦闘機特ニ夜間戦闘機ノ航行ヲ容易ナラシムルタメ特殊ノ手段ヲ用ヒシヤ
4.戦闘機指揮用音響(pride)ヲ使用センコトアリヤ、東京、九州共他何シノ地区ニ使用センヤ、如何ナルモノナリシヤ、目下之ヲ入手シ得ルヤ
5.如何ナル情報ニ基キ戦闘機ノ離着陸ヲ命令セシヤ、何人カ発令セシヤ
6.航行中ノ操縦者ニ対シ如何ナル訓令又ハ命令ヲ与ヘタリヤ、右命令ノ基礎トナルベキ情報ノ出所如何、使用「ラジオ」ノ周波数如何、右伝達ハ中央放送局ニ依リタリヤ(C.W)
7.一「メガサイクル」以下ノ周波ニヨリ地上ヨリ上空機ニ通信セシコトアリヤ、アラバ如何ナル通信法ニヨリタリヤ、周波数、実施場所ヲ述ベヨ、30、50、100各「メガサイクル」以上ノ場合に就テモ同様ニ述べヨ
8.敵機の位置知得ノタメ昼夜戦闘機ノ取リタル常用手段如何、如何ナル部分ニ電気装置ヲ用ヒタリヤ
9.機上ノ操縦者又ハ地上ノ観測手ニテ敵機ノ位置知得ノタメ無線方向探知機ヲ使用センコトアリヤ
10.戦闘機ニシテ電気的航行手段ヲ用ヒタコトアリヤ、如何ナハモノザリヤ、周波数如何、改善ヲ要スベシト思フ点如何
11.友軍機ノ基地帰還ノタメ地上方向探知機ヲ使用センコトアリヤ、本機ノ主要用途ハ其ノタメナリシヤ、其他ノ用途如何
12.3-10「メガサイクル」ニ於ケル方向探知機ノ得タル精度如何
13.連合国機ノ航法ニ関シ日本ノ知得セシ程度如何、日本ハ連合側ノ本手段ヲ使用センコトアノヤ、又ハ之ヲ封スル方法ヲ考慮セシヤ
14.電波探知機ヲ装備セシ機数如何、本機ノ用途ハ如何、機の位置標示ノタメ之ヲ使用セントセシコトアリヤ、如何ニ成功セリヤ、機上探知機ニ対スル将来ノ計画ハ如何ナルモノナリヤ
15.A1式探知機ノ必要ノ感ンタルコトアリヤ、本機ハ如何ナル程度ニ発達セシヤ
16.連合国側ノ通信(I.F.F.、VHF、其ノ他)入手ノタメ戦闘機ニ六式電波探知機ヲ使用センコトアリヤ
17.六式探知機ヲ装備セル機ガ其装備ヲ艤装セシルヤ直チニ攻撃ヲ終止セシ理由如何、斯カル場合如何ニ処置スベキヤニ関シ規定セルモノアリヤ
18.日本ノ最新式夜間戦闘機ハ如何ナル無電気的装置ヲム含ミアリシヤ
19.新式夜間戦闘機ハ機ノ位置標示又ハ航行ヲ容易ナラシムルタメノ特殊ノ装備ヲ有シアリシヤ
夜間、機ガ地上ヨリスル此ノ種ノ援助(但方向探知所ノAN「ビーコン」ヲ除ク)ヲ受ケタルコトアリヤ
地上ヨリ信号用燈火ヲ使用セシコトアリヤ、其移置用法如何
20.機上ノ電波探知機(第6型又ハ タキ式)ニシテ地上ノ探知機(Markl Model3又ハMark1 Model2)等ト連結セル通信ヲ受ケタル事実アリヤ、如何ナル目的ノ為此方法ヲ使用セシヤ
21.東京地区航空指揮所ニ配置セシ通信用以外ノ電気装置如何、他ノ地区ニモアリシヤ、其目的如何
22.本年4月ヨリ8月ニ亘リ東京地区ヲ行動セシ夜間戦闘機操縦手ニ就キ「ホタル」、「タヌキ、ホタル」、「イタチ」ニ関シ説明ヲ入手セヨ
其装備ハ何処ニアリヤ
24.戦闘機ノ攻撃ト火花信号トヲ共同スル為ノ方法及方針如何
25.日本ノ戦闘機指揮法ハ連合国ノ其レト如何ニ相違シアリヤ
P.P.I.法(計画位置標示器)ハ如何ニ発達セシヤ
(Plan Position Indicator)→ (計画位置標示器)  → ※誤訳(平面位置表示器) 
電波探知機、音波探知機、視号探知機等ニヨリ発見セラレタル場合ニ於ケル敵機ト友軍機ノ識別方如何
26.本年6月中東京地区ニ於ケル夜間戦闘機ノ何機ガ陸軍ニ何機ガ海軍ノモノナリシヤ
27.四月一日頃名古屋ヨリ東京ニ移動セル夜間戦闘機隊ハ何レナリヤ
尚名古屋ニ残置セシハ何隊ナリヤ、尚敵機ノ位置探知ノ為如何ナル電気装置(地上ノ特別)ヲ移動セシメタルヤ、位置標示ヲ有利ナラシメル為、日本ノ戦闘機ハ200浬以上(例ヘハ東京ヨリ名古屋ニ至ル)ヲ飛行セシコトアリヤ、機ノ位置探知ノ為如何ナル「ソース」ヨリ情報ヲ入手セシヤ 基礎命令ニ遡リ命令ヲ摘出セヨ
28.本年3月24-25日夜、名古屋、大阪、浜松地区ノ0200K 2330K 0100Kノ地域ニハ航空機何機存在セシヤ 何故セリヤ
29.警報情報入手ノ為位置標示飛行体ヲ如何ナル程度ニ使用セシヤ
其ノ大規模ノ使用ハ警報用電波探知機其他ノ装置ノ失敗ヲ証スルモノナリヤ
30.B29ノ空襲中左記各項ニ就キ日本ノ航空警報組織ノ予報セル情報ハ如何ナル程度ナリシヤヲ述ベヨ
(一)空襲地域  (二)兵力  (三)空襲ノ凡ソノ時間



陸軍調査部質問書(其16)回答(昭和20年11月20日)
「日本陸軍航空作戦関係情報要求の件」に関する陸軍調査部質問書(其の16)回答」

十一、陸海軍警報組織 全国ノ警報組織ハ原則トシテ陸軍之ヲ担任スルモ特定海軍地域(例ヘハ横須賀、呉、舞鶴等)及海面ハ海軍担任スルコトトセラル 陸海軍ノ間ハ電話ヲ以テ緊密ニ連絡シ大ナル摩擦ヲ生シタルコトナシソノ系統ノ」例左図ノ如シ [(図)以下省略] 
 m-1 (3)-01


右図ニ於テ陸海軍ノ「レーダー」通信ヲ統一セントスル気運ニアリシモ終戦迄遂ニ実現セズ
十二、日本ノ電波標定機ニ対スル連合国ノ妨害ノ影響
日本軍ノ「レーダー」ニ対スル米軍ノ妨害ハ主トシテ日本軍高射砲部隊ノ電波標定機ニ対シテ行ハレタ ●●組織ニ興タル影響ハ殆ントナシ
高射砲部隊ノ射撃指揮ハ標定機ノ妨害ヲ受ケタル際ハ日頃ニシテ訓練波附長変更等ニ依リ之ニ対応セシモ充分ナル成果ヲ攻メ得ス


参考情報
電波警戒機関係将校及高橋氏出頭要求ノ件 
復連報第八六四号 
発大村大尉 受完倉少佐 時間一三二〇 担任完倉少佐 
昭和二一、一、二二 渉外課 
主担任課 航本 一三二五 佐伯少佐ニ伝達済 
電波警戒機関係将校及高橋氏出頭要求ノ件 
一、○通信部「ミンクス」大佐 
○「レーダー」教育関係将校(航空通信長官部) 
○二十五日 〇九〇〇 
○「レーダー」教育ニ就テ 左記資料携行 
1、各種「レーダー」教育学校ノ名称、所在地 
2、各学校ノ課目ト教科書 
3 学校ノ指揮系統 
二、○工兵部「マツクウエン」中尉 
○立川航空研究所ノ高橋梅太郎氏 
○二十五日 〇九〇〇 
○農林ビル 四〇二号室 
○「ソイル、ラテツクス、コンクリート」ニ就テ



参考情報
進駐軍と有末機関との関係
「有末機関」についての覚書






参考文献
アジア歴史資料センター 「自昭和20年10月17日 第229号 至昭和20年11月30日 第469号 有末機関報綴」 レファレンスコード C15010237300
アジア歴史資料センター 陸軍調査部質問書(其16)回答 空襲に対する日本本土の防備/11.陸海軍警報組織 12.日本の電波警戒機に対する連合軍の妨害の影響 レファレンスコードC15010644000
アジア歴史資料センター 復連報第864号 昭和21年1月22日 渉外課 電波警戒機関係将校及高橋氏出頭要求の件 レファレンスコード C15010187400
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
海軍通信作戦史 昭和24年3月 第二復員局残務処理部史実班
「有末機関」についての覚書 河島真著 2018 神戸大学文学部
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81010200.pdf
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』第一復員省
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%BE%A9%E5%93%A1%E7%9C%81

仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案の解説

仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案の原本を以下のURLにアップしているので参照願います。
仮称3式2号電波探信儀1型指示装置関係取扱説明書文字起し版
https://drive.google.com/file/d/1ZuLFWVJEEVx4ztteaYY94n_DZQjuuALo/view?usp=sharing


2式2号1型(Type2Mark 2 Model 1 )(21)レーダーの概要は以下のURLにアップしているので参照願います。
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022292.html
二号電波探信儀一型の概要(「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会の抜粋版)
この兵器(二号は艦上装備見張用を意味す)は、波長1.5米で艦船用として設計されたものである。
最初は測距塔と一緒に部屋が回転する方式のものが戦艦、航空母艦、重巡洋艦に整備された。
第3.25図は軍艦武蔵の測距塔に取り付けた二号電波探信儀一型の写真である。
次いで空中線装置のみ回転するものが完成して、軽巡洋艦及び駆逐艦に装備された。
第3.26図は優秀船橿原丸を、航空母艦に改装した隼鷹の艦橋に装備した二号電波探信儀一型の写真である。
その後更に対水上射撃に使用の目的で改良され、二式二号一型改二、改三及び三式二号一型が出来たが、いずれも本格的整備には至らなかった。
この系統の兵器は、三式一号電波探信儀三型(昭和18年10月頃)が出現するに及んで、小型軽便性に於いて遥かに一号三型に劣り、且つ性能もその割に優れていなかったため、一号三型に圧倒され、又対水上目標に対しては二号二型と競ったものであるが、性能上本質的には二号二型に及ばないもので、その寿命は二号二型が安定性を増し、実用価値を発揮するまでのものであり、これがために一号三型が出現し二号二型が改善かせられた後は、漸次整備の面から脱落して仕舞った。
但し既装備のものは終戦まで使用され、相当の効果を挙げていた。
※参考資料
海軍のレーダー区分
1号:陸上装備見張用
2号:艦上装備見張用
3号:艦船装備対水上射撃用
4号:陸上装備対空射撃用
5号:平面図形的指示器(PPI)付きのもの
6号:陸上装備航空機誘導用

開発時期と戦況の影響
昭和18年12月に仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案が海軍技術研究所で上梓され、昭和19年2月22日に海軍艦政本部第三課が受領し、それ以降に横須賀工廠造兵部へ提供されることになる。
その頃日本軍は、昭和十八年十一月末にマキン、タラワ、十九年二月にクェゼリン、ルオットを失い、さらに七月サイパンを失って、戦局は急速に緊迫の度を加えつつあった。
サイパンの攻防を繞って展開された「あ号作戦」で航空母艦三隻と航空兵力の大半を喪って帰投した艦隊を迎えた内地では、そのような情勢の中で、全艦に二号二型改一を装備するこことなったわけで、呉工廠が特急で装備工事を実施し、またその調整試験には技術研究所電波研究部がその総力を挙げてこれに当たり、関係者は六月二十六日東京から特別列車を仕立てて呉に向かうという状況であった。
レイテ沖海戦は、第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)10月20日から同25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台にして、日本海軍とアメリカ海軍及びオーストラリア海軍の間で交わされた一連の海戦の総称である。
連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだ決死の海上展開は「捷一号作戦」として発動された。日本海軍の艦隊戦力はこのレイテ沖海戦を最後にして事実上消滅した。
このような戦況において、仮称三式二号電波探信儀一型は昭和19年2月頃では実用化はされていたものの艦船のへの配備はされない結果となった。
それは艦船における二号電波探信儀一型の位置づけが明確ではなく、用兵側からの不用論もあったためである。
用兵側としては、二号電波探信儀二型(マイクロ波レーダー)の改良に力を入れており、基礎実験を終えたスーパーヘテロダイン方式の受信機を兵器としてまとめ上げ、なん回かの試作実験を繰り返した上で、遂に昭和19年の9月に本格的なレーダーとして二号電波探信儀改二を完成されたことにあった。
当時、「捷号作戦」に備えてシンガポール方面に集結していた全艦隊にこの器材を供給し、改造を行うことは大仕事であった。
岡村総吾技術大尉(現東大工学部教授)がその責任者に充てられ、部下二名を伴って九月二十七日羽田発の飛行機便で現地に進出、斎藤中尉と交代してその作業に当たった。
艦隊はこの改造作業中にシンガポールからリンガ拍地に移動し、間もなくブルネイに向けて作戦行動に移ったが、整備要員は任務を終了してシンガポールに引揚げ、どうにかマイクロ波レーダーを、日本海軍最後の海戦ともいうべき「捷号作戦」に間に合わせることができた。

※日本海軍初のレーダー射撃について(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』レイテ沖海戦からの抜粋)
レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した仮称二号電波探信儀二型改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の捕捉距離があり、また、大和を初めとする戦艦群は初めてといえるレーダー射撃をおこなっている。その性能は「まずまず信頼して使いうる程度」といわれているものの各艦ごとの評価にはばらつきがあり、戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」とある一方、戦艦金剛の戦闘詳報では「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」としている。戦艦大和でも、長距離で10m測距儀を上回る精度が記録されている。
一般的に、アメリカ海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっている一方で、日本海軍ではレーダー技術が遅れておりその性能は劣っていたと言われている。しかし一方で、初月や西村艦隊へのレーダー射撃(下記)を例に挙あげ、アメリカ海軍のレーダー射撃も命中率の高さが証明されていないという主張がある。前者の場合、初月単艦を撃沈するのに巡洋艦4隻を含む13隻の艦艇で、2時間もの時間を必要とし、巡洋艦だけで主砲弾1,200発を消費していることからレーダー射撃の正確さを疑っている。
但し、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08030036800、昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)戦訓抜粋(電波兵器)ではレーダー射撃に関する公式記録としての報告は何故かなされていない。
捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)(昭和19年11月11日)
 https://blog.goo.ne.jp/minouta17/e/60da1ec9184cfb03210ddc576be286e7


仮称三式二号電波探信儀一型の特長
二式二号電波探信儀1型から三式二号電波探信儀一型への大きな改良点
(Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946からの二号電波探信儀一型の評価を基にしたコメント)
基本的には、装置自体を対空見張および対水上見張及び対水上射撃の両方に適合させるとともに対空見張能力の大幅な強化(三式一号電波探信儀三型と同等)をすることにあった。
周波数は従前の200メガサイクルのままであったが、送信電力は30キロワットに増加し、6から10マイクロ秒のパルス幅を可変にすることができた。
パルス繰返周波数を500に減少させた。
アンテナは「改造2」と同じだが、ローブ(指向特性)切換機能が追加されている。
改造4と5は、パルスの長さやレートなどの小さな変更を行うだけであった。
終戦時には、改造3以降の機器の艦上設置は完了していなかった。
解説
基本的にはパルス繰返周波数により探知機能の距離が決定される。
三式一号電波探信儀三型(13号)は、パルス繰返周波数が500で探知距離300km(※実際は帰線消去信号処理の時間約40kmを引いた260kmが実用探知距離となる)
二式二号電波探信儀1型(21号)は、パルス繰返周波数が1000で探知距離150km
二号電波探信儀二型(22号)は、パルス繰返周波数が2500で探知距離60km
捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)(昭和19年11月11日)の通信学校による電波探信儀能力の概要(※対空見張で大型航空機の探知での試験と思われる)
瑞鶴  13号 242km   21号 88km
日向  13号 170km   21号 125km
若月  13号 120km   21号 85km
この結果でも分るように、対空見張に関しては三式一号電波探信儀三型(13号)のほうが能力的に優れて居り、二式二号電波探信儀1型(21号)の不用の意見がでることも理解できる。
このため、三式二号電波探信儀1型(21号)では、13号と同じパルス繰返周波数500に変更するこことなった。
しかし、対空見張機能は強化したが、今度は対水上射撃の精度が大巾に悪化するため、射撃管制用の測距機に工夫する必要があった。
昭和18年当時の時代背景を考えると、用兵側としては依然艦隊決戦が主目的であり、対空見張も大事ではあるが射撃管制用レーダーの開発の要求も強かった。
しかも、二号電波探信儀二型(22号)は受信機のスーパーヘテロダイン化が完成する昭和19年9月までは動作不安定で安定運用が出来なかったことも、三式二号電波探信儀1型(21号)に唯一期待をかけることとなった。
このような背景をもとに、試作製作会社である東芝は、三式二号電波探信儀1型(21号)を対空見張、水上見張及び対水上射撃も大幅な能力強化した万能型のレーダー開発を目指した。
なお、東芝では昭和19年7月には、画期的な二号三型(波長五八糎)のパラボラアンテナの糎波水上射撃レーダーも完成させたが、有効距離が少し不足と云う理由に依り不採用となっている。


①ローブ(指向特性)切換機能による等感度法の測角測定方法
詳細は本文を参照してほしいが、まず重要なポイントとしては、「先ず空中線に取付けた切換装置より空中線集射方向を変えると同時に切換装置の発電板より正負の衝撃波を受けV401にてこの衝撃波を夫々正及負の衝撃波に分離する。」とある切換装置の仕様が不明であるが、aのアンテナとbのアンテナを切替装置が作動するとaからbの切換時の開始のaから切換終了時のbを正負のパルスとして表現しているもので切換え時間帯は受信も送信もできないことを意味している。
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処理過程を図示すると以下の通りであるが、ポイントは切換時間の矩形波と掃引用の鋸波を横軸に注入するところにある。
 104-等感度方式の概念図

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角度受信機(セルシン機構):本機は陸軍のタセ1のものであるが、海軍でも同様のものが採用されている。空中線の回転電動機の機構に連動して測角データをセルシン機構で砲撃指揮所へ伝達する。
 150-c-1 (4)


②ツーロン回路による精密測距方法
詳細は本文を参照してほしいが、まず重要なポイントとしては、測距技法として多くの測距機はゴニオメーターを採用しているが、本機はツーロン回路による移相調整器を採用している点が大きな特徴である。
この項の本文を以下に引用すると
この原理を使ってV101の翼板には0.12°(0.5km→※ハンドルを1回転すると0.5km進むという意味らしく、0.12°の単位は0.1kmである)変化するものが総計9ケ V102の翼板には1.2°(1.0km)変化のもの9ケ V103の翼板には12°(10km)変化のもの4ケ設け之等各抵抗は機械的に運動されてきて0.12°を変えて9段目より次の0項目となる時に1.2°が1段入る様にしてある。 
以上のαを繰り返して1.2°の4段目迄運動で回転し得る様にしてある。 
尚0.12°の軸より歯車にて連降して一回転500米の軸を出してセルシンの軸を結合し距離発信器を自動的に回転し得る如くしてある。
解説すると、原発信は500Hzの正弦波であることからこの波長600kmとなるが、この波を元としたレーダー波は反射を考慮したら測定距離は半分の300kmとなる。
これを水平軸に表示すると、横軸に300kmの水平線となるが、1波長を位相で考えると360°が300kmに対応することになる。
それでは、1.2°の単位はというと距離では1kmとなる。
この移相調整器では最大49,999m(誤差±100m)の距離をデジタル表示するとともに、砲撃指揮所へセルシン機構で同時にデジタル表示することができる
原発信の500Hzの正弦波からパルス繰返周波数500のパルスに変換してパルスを発信することになるが、反射波を120mmのブラウン管にこのまま表示すると帰線消去時間を差し引いた実質260kmの距離を水平軸に表すと、射撃用の50kmしか必要ないので、水平線の約20%しか利用できないこととなる。
逆に言うと画面の分解能が悪くなり、このままでは読取り誤差が大きくなることになる。
このため、横軸の掃引として正弦波から鋸波に直接変換せず、正弦波を直接掃引波とし、90°位相をずらしたものを基線消去信号としてヒーターに加えることで、結果として1000Hzの鋸波と同等の効果を得るように考案されている。
これにより、ブラウン管の画面では水平軸が実質130km(帰線消去を考慮)の中での50kmとなるから読取りが容易となる。
また、同時にブラウン管のグリッドに輝度変調することで送信パルス位置を輝点として光らせて同調を容易する仕組みも用意されている。
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処理過程を図示すると以下の通りであるが、ポイントは移相仲介器なる移相調整器の仕組みと正弦波を鋸波として掃引する仕組みである。
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204-スライド2

205-スライド3

 
測距機の本体部
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移相仲介器
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測距器の機構部
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③東芝開発の新型真空管のH管の採用
東芝研究所長の濱田成徳氏のイニシャルから取った「Hシリーズ」が昭和18年(1943年)から生産されるようになった。
これは東京電気が全金属管を国産化したものの生産効率が悪くて海軍に納入するのに精いっぱいだったので、もっと量産の出来る高性能の真空管を開発することが要求されたためだった。
但し、電極間容量が問題となり、折角の高gm管としての性能を発揮出来なかった。
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➃ブロック工法による生産性と保守管理の向上
仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案の最後の項に以下の記述がある。
(4)其の他
1.目盛較正は光学的目盛板が実距離とどの程度異なるかをたしかめるものである。
一サイクルが丁度  kmになっているのである。
2.ブラウン管は1500Vの高圧を使用しているから特に注意する必要がある。
3.本機は総てブロック方式として組立てあるため故障点検等にはブロックを抽出して補用品筐内の接栓を接続して外部にて点検可能なる如くしてある。
この本格的なブロック工法は軍用無線機器においては世界で初めての採用と思われるほど先進的な取り組みである。
このためブロックの背面部には本体装置との接合のための爪上の端子盤が用意されている。
このブロック工法により、製造もブロック単位で製造でき、試験もこのブロック単位で行うことができる。
しかも、艦上設置後の保守点検や故障時の対応も大変容易で、かつ保守用ブロック用品を用意しておけば故障ブロックを交換するだけで済むこととなる。
このようなブロック工法は米軍でも戦後のトランジスター型の無線機器でないと見ることはできない。
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⑤東芝社史による軍批判について
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行)からの抜粋
終戦から昭和23年まで
終戦直後は前記のテレビ計画のように、文化国家の再建というような高度の希望もあったが、日時が経過するにつれて敗戦の現実が重くのしかかり、通信機製品の前途は、一部をのぞいてますます困難となった。
この困難にさらに拍車をかけたものに、太平洋戦争におけるわが国の電波兵器に対する不信があった。
これは国の誤った方針が技術や生産を破壊したものであるが、一般にはメーカーに責任があるように考えられ、日本の電子工業が劣等であるとの概念が世界に喧伝され、通信機工業の再起に大きな打撃をあたえたのであった。
試作製作会社である東芝が開発した三式二号電波探信儀1型(21号)や二号三型(波長五八糎)を昭和19年中期に整備しておけばレイテ沖海戦では違った戦局になったかもしれない。
残念ながら、東芝の努力は水泡に帰したことになる。



「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会の抜粋版
(対水上射撃用電波探信儀)
海軍の対水上射撃用電波探信儀に対する要望は、戦争初期から一貫して非常に強かった。
しかしその要求性能は著しく高く、常に日本海軍がその性能を誇っていた前橋頂上の主測距儀と同等若しくはそれ以上なることを要求されていた。
即ち戦艦にあっては大口径砲の最大射程即ち40粁乃至50粁の距離に於て測的可能なること、その作動も測距儀と同等若しくはそれ以上に安全にして信頼性大なることが要求され、且つ重量容積に於ても相当過酷なな制限が附せられていた。
そのため本機の研究はまず有効探信距離を増大することを主眼としたが、中々にその要求を満たすに至らなかった。
しかるに昭和18年春頃から暗夜又は狭視界時に敵は電波探信儀を用いて射撃を加えて来ることが明らかになって来、これに由って急激に射撃用電波探信儀に対する要求の切実度を増してきた。
即ち有効距離よりも、測的精度及び操縦追尾性能の改善に重点を置くに至ったのである。
ここに於て2号1型に空中線切替装置を附し、2号2型には受信電磁ラッパを2個とし、これに切換装置を附し、左右切換を行う等感度方式として測角精度を向上せしめ、且つ精密測距装置を附して、測距性能を高め、有効距離を幾分犠牲にしたものを作った。
これらをまず戦艦大和に仮装備し、射撃用電波探信儀としての性能実験を行ったが、その結果、一部に改良を施すことに依り、実用可能との一部の結論を得、昭和18年末から昭和19年1月頃にかけ、急速整備の態勢を整えたのであるが、その後の研究の進展意の如く成らず、技術陣は大いに苦慮した。
2号1型は昭和18年末から19年1月にかけ、必死の調製実験が行われ、巡洋戦艦および重巡洋艦に整備を下命されたが、調整困難のためどうしても所期の性能を発揮できなかった。
しかしなお那智その外一、二の艦に対し、装備し実用を計ったが、暫くして整備中止を下命され、装備済のものも撤去復旧せしめられた。
2号2型系のものは、昭和18年10月軍艦大和に於ける実験に使用した切換方式が不完全であることが判り、早くも整備の線から脱落したのである。




参考文献
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
東京芝浦電気株式会社八十五年史(昭和38年発行
仮称三式二号電波探信儀一型指示装置関係取扱説明書案 海軍技術研究所 防衛省戦史資料室
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08030036800、昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)
真空管半代記 藤室衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』レイテ沖海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6




戦時中の陸海軍「糎波レーダー開発」の課題と展望について

広島市の繁華街にある古本屋に入っていた時、ふとこの本を目にしました。
20世紀を生きぬいた ある技術者の光と影 大脇健一著からの抜粋
著者の大脇さんが戦時中に川西機械製作所に勤務されていた時の話ですが、
われわれも軍の研究に協力させられた。海軍は、海軍技術研究所で研究していたレーダー用の発振管、陸軍は、多摩研究所で行っていた殺人光線用の大出力磁電管の開発だった。
前者は主として私が、後者は前述の林清さんと藤本行一さん(東工大卒)の二人が主体になって、開発に努力するこことなった。それは、私が開発したZ-301(この当時世界で一番おおきな磁電管だった)という出力1.2キロワットの空冷式大型磁電管を、出力10キロワットの水冷式に作り換えることだった。

ここで大変興味が湧いたのは、戦時中の糎波レーダー開発のキーデバイスである磁電管(マグネトロン)の開発に川西機械製作所も関与していたという事実である。
戦時中に日本で実戦配備された糎波レーダーは海軍が艦船用の2号2型電波探信儀、陸軍が船舶搭載用のタセ2号の2機種しか存在しない。
しかも、使用された磁電管(マグネトロン)は日本無線株式会社が開発したM-312、M-60AマグネトロンとMP-15、ML-15マグネトロンの2組の磁電管しか実用化された記録はない。
このことから、日本のマイクロ波レーダーが進歩しなかったのは、日本無線株式会社1社のみの開発のため日本としての総合力が発揮できなかったのが原因だと思っていたが、実際は多数の大手電機メーカーが磁電管(マグネトロン)の研究開発・製造をしていたようだ。
しかしながら、結果として何故日本無線株式会社だけが糎波レーダーの開発をおこなったのか疑問が残る。

今回手持ち資料とネットの力で日本製の磁電管(マグネトロン)を使用した糎波レーダーの問題点について検討してみました。

Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
E-13 Japanese Electronic Tubes https://drive.google.com/file/d/1ADlIAW1kl_9HfuzJ3D0EJVMB9Iivdd6K/view?usp=sharingの資料を提示する。
この資料では、川西機械製作所、日本無線、東芝の3社が主として磁電管(マグネトロン)の開発をしていることが判る。
また、別資料(アジア歴史資料センター)では昭和14年3月の日本電気玉川向工場監理管陸軍工兵少佐青柳登治の管理月報(3月分)からマグネトロンの納入事実もある。
ほぼ、日本の大手電機メーカーがキーデバイスである磁電管(マグネトロン)の開発・製造に関与していることが判るし、開発時期も日米開戦よりも前の昭和13年から14年には開始されている。
では、何故大手電機メーカー各社で糎波レーダーを開発して大きな成果として結実しなかったのだろうか。


課題1 メーカーの開発戦略の相違
1例としてあげると、東芝の社史に以下の指摘がある。
「これは機器内に使用する真空管は極力同一規格の三極管を用いるもので、操作保守を能率的かつ簡便にするには極めて有効な方式である。
もちろん三極管で超短波を発振することには、構造的にも周波数の限界があるが、当社では極力この方針を推進して、戦争末期に当局から磁電管の製作を要請されるまでこの方針を貫き各種の特色ある兵器を完成した。」
このようなことから、東芝では磁電管(マグネトロン)によるマイクロ波レーダーには積極的に取り組みしなかったことが判るが、大手電機メーカーである日本電気、川西機械も同様な会社経営層の判断があったのかも知れない。
たしかに、メートル波のレーダー開発に比較して、糎波レーダーには技術的リスクが高かったのも事実である。
また、軍の糎波レーダーに対する開発方針も明確ではなく、製造メーカー伝える努力もしなかったかもしれません。


課題2 磁電管(マグネトロン)の殺人光線としての過度な応用開発への傾斜
もう一つの観点としては、磁電管(マグネトロン)をレーダーとして使用する目的ではなく、所謂、殺人光線として超大出力マグネトロンの研究開発に要員・資金を投入した事実がある。
特に戦局が不利となると神風として、超大出力マグネトロンの出現を夢みることとなる。
第二海軍技術廠牛尾実験場、第9陸軍技術研究所(通称:陸軍登戸研究所)で開発・実験がなされたが、当然であるが実用化の目途は立たなかった。
結果、磁電管(マグネトロン)の本来のレーダー開発が阻害される大きな要因となった。

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課題3 マネージメントとプロジェクトリーダーの在り方
これに関連した下記の資料を紹介する。
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二からの抜粋
第四節 物理懇談会とは(原子爆弾と強力電場の真相) 
二.強力電波の始末記
国防技術として本研究を強引に推し進めようと海軍が企画し、決意したその責任の大部分は筆者(伊藤庸二)にあった。
今静かに戦争の当時をかへりみる。果たして本質的に非なりしや、時間的に非なりしやと。
科学の未来は何人にも予見し得るものではない。併し電子技術の趨勢から推せば、本研究は磁電管の当然歩む可き道を歩んだことになるのであり、怪しむに足らない。之は何人も認めるところであろう。只問題は「此の時機に此の目標で」と云う話にあった。面も之が国防技術としては本質問題なのである。
古人は曰(い)う、「時務を知るは只俊傑にあり※」と。痛烈な此の話の教訓が容赦なく今筆者(伊藤庸二)を鞭打つのである。
この事例でも分るように、海軍のマネージメント階層であるレーダー開発の責任者が伊藤庸二氏のような学究肌の研究者であれば、戦略目標としてのレーダー開発のプロジェクトが進むとは思われない。
人材の適材適所と人事評価が機能していなかったことも大きな問題の一つである。
しかも、陸軍では海軍の開発動向をみて単に対抗して無駄な開発投資をおこなったのではないだろうか。
実際には日本無線株式会社が製造した最優秀であるM-312、M-60Aマグネトロンをベースに陸軍・海軍が使用目的別の糎波レーダーとしての完成度を各社メーカーが競い合えばいいことであり、軍は如何に完成度の高い糎波レーダーを製作するための各社技術情報の提供する立場に立脚することが肝要である。
要は、プロジェクトリーダ―は軍組織のような官位を持たない民間人に任せる必要がある。
軍はマネージメントに徹して、要求仕様を提示、民間各社の技術情報の収集と提供と生産資材の確保などの明確な作業分担が必要である。
以下、当時の海軍の糎波レーダーへの本来対応すべき技術要素を示す。
・PPIの採用
・導波管の検討(円形から方形へ)
・空中線の改良(電磁ラッパからパラボラアンテナの採用)
・精密測距方式の検討
この中でPPIの採用についての問題点を以下に示す。
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二からの抜粋
第一節 電波探信儀
敢えて、又話は前にもどるが、軍艦伊勢、日向への電探装備実験の時の事である。実験委員会の中に前述の高柳健次郎氏が居られたが、氏は此の時一つの着想を筆者(伊藤庸二)にもらされた。それはPPIの考え方であったのである。
PPIと云えば今レーダーを云々する人は誰でもうなづける。併し、当時としては真に新しい着想であった。それを一口に云えば、電探を以て地形図を描かせる構想であった。此の高柳氏着想は真に基本的なものであった。之とは又無関係に軍艦日向のその時の副長馬場正治氏が同様の着想を私(伊藤庸二)に示された。
それから2年余り後の事である。撃墜されたB29から取り外した飛行機用電探に高柳、馬場両氏の着想を実現する装置が発見されたのだ。そして、いまの電探と云えば民需用のものは悉くが此のPPIである。両氏の着想は真に基本的な着想であったのだ。
ところで、何故に此の発明が日本では延びなかったか。種は既に蒔かれて居たではないか。其處には遺憾な理由が多々あった。それは飛行機用見張用の21号電探も、水上見張用の22号電探も、当時のものでは直ちに「武人の蕃用」には堪え得なかったし、特に22号はそれからしばらくの間、不安定と云う本質的な疾患があった。更に射撃に用う可き各種電探の急速完成等。その日その日の戦闘に対する対策に昼夜も分たず努力せざるを得なかった電波兵器研究陣には、此の着想は猫に小判、豚に真珠であったのである。思えば不甲斐ない極みではあった。
戦いは終わった。平和は再び帰って来た。日本の文献にも特許にも現れてをならぬ此の両氏の着想が今は新しい文明の利器として平和産業に用いられつつあるのである。此の事実を思う時、筆者は限りない責任感におそわれるのである。今此處に敢えて事実を述べて、且つ両氏に対する贖罪の一端とし度(たくし)い。
このことからわかるように、軍の伊藤庸二氏はマネージャーとプロジェクトリーダーの兼務であり、PPIの開発を指示できる立場にいたことになる。
敗戦後、反省されてももう手遅れなのである。


課題4 民間会社の軍の支配
海軍技術研究所、陸軍技術研究所の軍人(高等官)が中途半端に技術が判り、メーカーをコントロールしようとしたことに問題があったのではないか。
極端な例であるが各社電機メーカーでは、陸軍と海軍用の開発・製造組織が独立しており、組織間の技術交流も禁止されていた。
また、工場には工場監理管の軍人が常駐しており、工場を監視し常に生産状況の監視・監督を行っていた。
結局、メーカー各社は、人材、資材とも陸軍(地上と航空機)・海軍(艦船と航空機)用に4重投資していたこととなる。
軍の工場支配の最終形態である軍需省が1943年(昭和18年)設置されるに伴って、同年10月公布(12月施行)された軍需会社法によりメーカーの独立性はなくなった。
丸 平成9年7月号 機上索敵レーダー「タキ-1」開発秘話からの事例を示す。
日本無線株式会社技師三佐保忠之氏の手記よりの抜粋
これが昭和18年6月多摩研が開設され、「タキ-1」と名付けられた機上索敵電探開発の始まりだった。当時はレーダーに関する資料は何もなく、軍より仕様書も提示されず、何をどうしたら良いのか、全くわからなかった。
無我夢中の状態で、真空管はどれを選ぶのか? 飛行機に搭載するには、アンテナの指向性を考慮に入れなければ、波長は短くしなければ・・・、パワーは出したい・・・
とにかく、どの位のものができるかやってみよう、という手さぐりの状態だった。
当時の日本無線技術部は3課に分かれており、技術第一課は民生器、技術第二課は陸軍、技術第三課は海軍関係と分類され、その他に研究課すなわち基礎研究に従事するグループがあった。
二課と三課の技術者の交流は全く無く、付けているバッジの色も違っており、他方の課内に立ち入る事はできず、相互に何をやっているのか全く分からない状態だった。
この頃、「タキ-1」に相当する海軍機に装備された索敵用電探「H-6」は技術三課で開発・改造がおこなわれており、ほぼ完成の域に達していた。
第二課は栂村善近課長、岩井亭主任以下訳250名のメンバーであり、この内の約20名が、多摩研三鷹分室に席を移して「タキ-1」や「ウルツブルグ」などの研究・開発に従事した。
・・・一部省略・・・・
私は海軍航空技術廠実験部に押しかけて海軍側の電探(仕様、部品、運用等)調査をおこなった。当時の陸海軍の壁は厚かったが、空技廠の辻田海軍技術少佐は苦笑しながらも面談して、指導してくださった。
辻田海軍技術少佐のご厚意で海軍の大艇に同乗させてもらい、小笠原の父島付近まで飛んで実際に海軍の電探の使用状況を見せてもらった。
以上でわかるように、日本無線株式会社内の第二課と第三課で同じ使用目的の機上索敵電探を別個に開発することとなるが、先行しているH-6を陸軍機用に改良するだけの話であるのだが・・・。
この結果、陸軍のタキ-1は総重量150kg、一方海軍のH-6は110kgと少し軽量である。この重量差で陸軍では運用する航空機がキ-67(飛龍)などの大型機に限定されることとなった。
なお、海軍のH-6は大量生産されて2座以上の航空機での索敵業務に活躍するこことなる。
この事実から、糎波レーダーである海軍用の2号2型電波探信儀と陸軍用のタセ2の開発・生産も日本無線株式会社内の第二課と第三課と別々に行われものと思われる。
特に、糎波レーダーのキーデバイスである磁電管(マグネトロン)においても日本無線株式会社が開発したM-312、M-60Aマグネトロンが海軍用、MP-15、ML-15マグネトロンが陸軍用として使用されている。
なお、陸軍用のタセ2の生産については、日本無線株式会社が60台、東芝が20台であるが、東芝の社史のとおり、戦争末期に当局(陸軍)から磁電管(※東芝が製造した記録は確認できていない)の製作を要請されたという文面と一部符合する。


ここまで否定的な論調となったが、展望として最後に糎波レーダーの成功例を2点示す。
展望1
ひとつは海軍大型航空機「連山」用の5号電波探信儀1型(51号)は、実用化試験中に敗戦となった。
航空機搭載用の糎波レーダーで、空冷のM-312マグネトロンを使用したPPI方式を採用していた。日本無線株式会社が総力を挙げて開発したもので、社史でもその成果を誇らしく掲載されている。
日本無線株式会社の1社でこのような成果がだせるのであれば、東芝や日本電気などの大手電機メーカーもこの糎波レーダーの開発分野に参加していれば、局面はまた違った展開になったのではないだろうか。


展望2
もう一つは純民間メーカーの研究所での研究成果を示します。
Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
E-13 Japanese Electronic Tubesからの抜粋を示す。
Ⅲ. 当社が実施したマグネトロン研究の課題(H.今井)
A. 糎波マグネトロン仕様
(1)5cm
Ep・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10,000V
Ef ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11V
B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1000ガウス
If ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.4A
ピーク出力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3kw
最大プレート放熱量 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100w(自然冷却)
マグネットポールギャップ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 5/16w
全長 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6w
(2) 3cm
Ep・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12,000V
Ef ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11V
B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・800ガウス
If ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.6A
ピーク出力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1kw
最大プレート放熱量 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30w(自然冷却)
マグネットポールギャップ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 5/16w

B. センチメートルマグネトロンを用いた装置 -
これらのマグネトロンを用いて、通常の50kmの範囲だけでなく、15mまでの非常に短い距離にも応用できるPP1に関する基礎研究を行った。
後者は、盲目着陸や霧の中での編隊飛行の際のパノラマビューの確認に特に重要である。 このような用途に必要なシャープなビーム、回転するラジエータのサイズが小さく、パルスの持続時間が非常に短いことから、以下のような装置を目指しました。
(1) 発振器: 5cmマグネトロン(後に3cmマグネトロンに置き換わった)。
(2)フィーダー:   送信と受信に共通の矩形波ガイド。 バルブ出口と回転機構で部分的に使用されている同軸パイプ。
(3) 放射器:  放物面鏡の焦点にある空洞共振器の片面にある分割アンテナ。
4)変調器:  パルス幅は近距離で0.005ms、長距離で2msである。
(5) 受信機:  混合器、鉱石検波器。
      局部発振器速度変調管。
I.F.中間周波数150MC/S。
バンド幅40MC。
(6) 表示器:
(a) ブラウン管、回転ラジアルスイープ。
    (i) 繰り返し周波数 短距離用80kc/s、長距離用3kc。
    (ii) 回転周波数。 鏡面回転に同期して約10kc/s。
(b) PPIの他にも、上記の原理を応用して、船舶や潜水艦のペリスコープ用の高度な検出器を得ることを目的としている。
(c) PPI表示器   第2項で述べたPPIには、通常の直径12インチのブラウン管(陰極線)を使用したが、これは蛍光時間が長くなるように特別に設計されたものではなかった。 このような専用設計のブラウン管は、当工場ではまだ量産されておらず、ミラーの回転速度は10C/Sと速く、機械設計の観点からはそれほど難しくないように思われた。 そこで、回転ラジアルスイープを発生させるために広く使われているセルシンモーターの代わりに、光学電気方式を採用した。 その原理は以下の通りである。
(i) 2組の光源とそれに対応するフォトセルは、回転鏡(アンテナ)シャフトに垂直な平面内で互いに垂直に設定されている。 シャフトには2つのカムが取り付けられており、それぞれ対応する光ビームをシャフトの回転に応じてカットして、フォトセルに正弦波を生成する。シャフトが回転速度にかかわらず、生成される波の位相が正確に90°異なることは明らかである。  
(ii) これらの波で繰り返し周波数を変調し、キャリアの繰り返し周波数を個別にキャンセルすることにより、2つの変調積電圧が垂直偏向板と水平偏向板にそれぞれ供給され、目的の回転パターンが得られます。 セルシンモーター(80 kc)の問題とは対照的に、繰り返し周波数を簡単に選択でき、検出器の周りのすべての方向で検出される物体の画像をブラウン管で一目で見ることができる。
(d) 電波探知機でインパルス方式を用いた場合、山のような固定物体の有害なイメージを指示器から排除することはできない。 しかし、ドップラー効果を適用すれば、高速で移動する物体だけを検出でき、さらにその物体の絶対速度を測定することができる。 後者のデメリットは、ノイズのない安定した高出力の連続デシメータ波を得て、直読で距離を測定することが難しいことにある。 この報告書の筆者である今井氏のもとで苦労して開発された電波探知機の概要は次の通りである。
波長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20cm
送信機・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12分割マグネトロン(空冷式)
アンテナ出力・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150W(連続)
検波器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水晶
放物面の直径・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2.5 メートル
測距システム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・F.M.
有効距離・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中型爆撃機では25km
                                     B-29では40キロ
なお、本電波探知機(ロケータ)が実際に使われるようになったわけではない。

この論文だけでは、会社名(筆者:H.今井)が不明であり具体的な詳細内容を把握するのは困難であるが、このようなレーダーは軍の記録(仕様)はなく、民間メーカー独自の糎波レーダーの研究と思われる。
具体的な機能としては、方形導波管、PPIやドップラー効果によるMTIの原理(Moving Target Indication固定反射消去)を採用している。
どこまで実用化されたのかは不明であるが、やはり民間の自由な研究の中に活路があることは言うまでもない。


昭和14年3月調 管理月報 日本電気株式会社玉川向工場擔住 監理官陸軍工兵少佐青柳登治

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M-312、M-60Aマグネトロン

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MP-15、ML-15マグネトロン

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参考文献
20世紀を生きぬいた ある技術者の光と影 1991年(平成7年)7月 大脇健一著
四国新聞社 http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20010405000120
日本電気株式会社玉川向工場 アジア歴史資料センター、リファレンス番号:C01004721100
丸 平成9年7月号 機上索敵レーダー「タキ-1」開発秘話 三佐保忠之 
E-13 Japanese Electronic Tubes  https://drive.google.com/file/d/1ADlIAW1kl_9HfuzJ3D0EJVMB9Iivdd6K/view?usp=sharing
2号2型電波探信儀 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022293.html
タセ2  http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022281.html
5号電波探信儀1型(51号)  http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022305.html
川西機械製作所 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/01/09/163652
日本無線株式会社 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/01/09/163220
東京芝浦電気株式会社 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/01/09/163408

雲上より日本都市を狙ふ B29の電波暗視機? 電波科学 (昭和20年2月号) 
電波兵器の種類
今次戦争と共に現出し一躍時代の寵児となったものは電波兵器である。
その電波兵器として最も基本的な電波警戒機(Radio Detector)及び電波標定機(Radio Locator)は、捕獲した米英の兵器を例として既に常識程度に迄知られているが、電波兵器として挙げるものの種類を一応列挙して見ると次のようになる。
1.地上用電波警戒機
2.地上用電波標定機
3.機上用電波警戒機
4.機上用電波標定機
5.電波暗視機(地形判別機)
6.電波探索機
7.電波妨害機
8.電波誘導機
9.友軍識別機
勿論これは単に便宜的な分類をしただけの話で、何等絶対的な根拠を有するものではない。
ここで警戒機とは主として敵機又ハ敵艦隊の発見を目的とするもので、一方比較的近距離に於ける敵の位置を正確に標定する目的とするものを標定機と称することとする。
地上と機上とにわけたのは、後者が前者に較べ遥かに縮小なることを要求するからである。
電波探索機とは敵電波兵器の電波を探索してこれを方向探知等に逆用しようとするもの。
妨害機は積極的に妨害電波を発射して敵電波兵器を妨害せんとするもの。
誘導機は主として悪天候時、又は夜間に於ける邀撃戦等に於て友軍戦闘機を敵機近くまで誘導するもの。
友軍識別機とは読んで名の通り、彼我の識別を興へるものである。
電波暗視機とは、又地形判別機とも称し、主として悪天候又は夜間に於ける航法或は爆撃に使用せられる。
即ち地形指示のブラウン管映像面を使用し、地形地物を平面的に現示せしめんとするものである。
電波暗視機とは
電波暗視機は現在、まことに電波兵器の花形とも講ずべく、あらゆる電波兵器の技術の総合として考えることが出来る。
これが完成すれば当然地形地物の判別以外に、通常の警戒機、標定機の機能をも具備し、夜間の探索及び爆撃等も可能なることは論を待たない。
元来極超短波の反射は地表面上の物質により、その状況を異にする。
海、湖、河川等水面よりの反射と、山岳、森林、都会地等陸地よりの反射とは全然違っている。
従って飛行機上より極超短波を発射し、同時に空中線をも回転せしめて、自機の四周よりの反射波を受信し、これを映像面上パノラマ式に現出せしめれば、恰も地上を俯瞰するかの如き映像を結ぶことが出来るハズでる。
然して実際問題として、英米が現在実用している3乃至4糎程度の波長及び現用のブラウン管を以てしては、空中写真を見る如き精密な地形地物の判別は不可能であり、これが判別利用の域に達する迄は相当の熟練と、準備的研究が必要である。
技術的観点に立つと、波長3乃至4糎程度の送受信機が最も問題となる。
発振管にも磁電管を使用し、速度変調管其の他の特殊真空管を使用することが必要になって来る。
而して飛行機上に搭載する為に全体としての容積重量の軽減は又看過し得ない問題である。
空中線は現在の處、英米共に回転放物面反射鏡を有するタブレット又は導波管を360度一定速度で回転せしめている。
かくしてブラウン管上に現出せしめるのであるが、羅針盤とこの機構に依り方位を正確に指示し、或は米の誇るノルデンの照準眼鏡のように自動探知機と連動して爆撃進入時の飛行制御を行う等、或は又測距装置、距離間隔の切換等細部に亘って種々と難しい問題が多いのである。

英米の電波暗視機
英国では早くからロッテルダム装置と称して、対独爆撃に際して偵察機が必ずこれを装着して先行している。
米国では英に少し遅れたが、最近得るところによれば例の本土空襲のB-29には各機にもこれを装備して来ているらしい。
写真で見ると主翼の胴体貫通部の下にお椀状のものが見えるが、これは明らかに空中線を貨した覆いでなければならない。
米国では一般に電波兵器のことをレイダーと呼ぶが、最近はレイダーに恰も電波暗視機特有の諸用とさえ解され勝ちである。
その性能が如何なるものか、深夜帝都に侵入するB-29が海中に投弾すること度々なるを見るとき、必ずしもその性能怖るべきものならざるを知ることが出来る。
第2図は伯林市街のロッテルダム実況図である。
これは各部分部分のロッテルダムによる写真を集め、平面図的に作ったもので、第3図はそれを幾分修正したものであろう。
孰れも独軍の手に落ちた英国の携行資料である。
第4図はロッテルダムの指示機を示す。
B-29の有するレイダーも概ねこのロッテルダムに依り想像可能のことと思うふ。
*******
電波を利用した兵器はこの点にも粛々考えることが出来る。
電波高度計などは最も古くから、また最も常識的に考えられて来たものである。
特に低高度用の精密高度計が出来れば、暗夜の超程度雷撃、盲目着陸等の問題は殆どすべて解決されるのである。
一般無線航法も、将来は単なる方向探知のみならず、更に合理的或は信頼度高き航法器材の現出を当然予想せねばならない。
将に戦争は電波の決戦である。
今回は特に電波技術の最先端を行く電波暗視機地形判別機の全貌を紹介した次第である。

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出典
電波科学 (昭和20年(1945年)2月号 「雲上より日本都市を狙ふ B29の電波暗視機とは?」


捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)(昭和19年11月11日)に関する考察

まず、捷號作戦について基本情報をネット情報で確認すると以下の通りです。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』レイテ沖海戦からの抜粋
レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、英語: Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)10月20日から同25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台にして、日本海軍とアメリカ海軍及びオーストラリア海軍の間で交わされた一連の海戦の総称である。フィリピン奪回を目指して侵攻するアメリカ軍を、日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生した。 
この6日間の海上戦役は、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦といった四つの海戦で構成されており、その他に基地航空部隊による交戦も頻繁に行われていた。また、神風特別攻撃隊が初めて組織的に運用されている。連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだ決死の海上展開は「捷一号作戦」として発動された。日本海軍の艦隊戦力はこのレイテ沖海戦を最後にして事実上消滅し、10月20日にレイテ島に上陸したアメリカ軍のマッカーサーは、25日に同島に司令部を設置した。

この作戦による戦訓が下記のように取り纏められています。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08030036800、昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)
本資料から第一機動艦隊により、昭和19年11月11日付で捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)として取りまとめられた資料である。

捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)(昭和19年11月11日) 
https://blog.goo.ne.jp/minouta17/e/60da1ec9184cfb03210ddc576be286e7


報告書にあたり、残存艦である大淀、日向、若月、霜月及び伊勢の5艦の艦歴の参考情報を以下に示します。
大淀
軍艦大淀は日本海軍の軽巡洋艦である。1945年(昭和20年)2月下旬に内地帰投後は呉練習戦隊に編入され瀬戸内海(呉)に停泊し、昭和20年7月28日の呉軍港空襲で大破横転、沈没した。

日向
日向(ひゅうが、命名時のかな艦名表記はひうか)は、大日本帝国海軍の戦艦。伊勢型戦艦の2番艦。太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。
通常の空母の半分以下の長さしかない飛行甲板では艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースである。
昭和20年7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け、日向の草川艦長も戦死した。

若月
一等駆逐艦「若月」は、秋月型駆逐艦の6番艦である。
昭和19年11月11日、多号作戦に従事中の「若月」は、米軍機の空襲により島風型駆逐艦「島風」等と共にレイテ島オルモック湾で撃沈された。

霜月
一等駆逐艦霜月は秋月型駆逐艦の7番艦である。
10月から11月にかけて多号作戦において、秋月型駆逐艦は霜月を含め4隻(秋月、初月、若月、霜月)が沈没、2隻(涼月、冬月)が被雷損傷するという損害を蒙った。

伊勢
伊勢(いせ)は、日本海軍の戦艦で伊勢型戦艦の1番艦である。
昭和20年3月19日、呉空襲で伊勢は直撃弾2発を受け、呉港外・音戸町坪井沖にて特殊警備艦となり燃料不足とアメリカ軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま防空砲台となった。 

捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)の所見の項目を以下に抜粋する。
3.所見
(イ)電測指揮所を設け各電探を統一使用すると共に射撃機関、見張機関に対し更に密接なる連携を可能ならしむる如く改善の要あり
(ロ)敵艦隊は数隻毎に1隊をなし概ね日(出)没(前)後約1時間及び正午頃一斉に電波探信を行い同時に探信を以って通信(通話)をなすものの如し
   長時間連続電波を探知する場合又は感度に高低を感ずる場合は概ね敵電探探信可能距離に在り電探に依り連絡をなす場合は補足されたる算大なる場合の認められる
(ハ)電探に対する敵飛行機の反射波は味方飛行機に比し顕著なる特徴を呈するに依り味方識別可能にして機数、編隊数を概ね判別し得たり(霜月)
(ニ)敵飛行機は味方識別を使用せるものの如く13號電探に現れたる反射波は絶えず点滅を繰返しつつ接近せり
   但し21號には此の種の現象を認めず(若月)
(ホ)敵飛行機よりの反射波は友軍機の夫れに比し感度極めて良好なり(若月)
(ヘ)敵飛行機は約40粁附近より欺瞞体を投射しつつ15粁附近迄接近すると例とせり此の際小編隊を誤りて大編隊として報告せることあり(若月)
(ト)24日夜間敵水上部隊に近接せる際200,150,120Mcの電波を感5にて探知せり
200,150Mcは音色清澄(ピーピー)、150Mcは「ヂ―」音何れも味方のものに比し勢力強く前者は旋回時隔探信、後者は常時探信を実施しありき
時隔探信電波輻射時間は概ね30秒以上3乃至5分程度なり(日向)
(チ)対空見張用電探は13號に統一(21號廃止)の上左記事項に関し考慮の要あり
(一)艦船装備所要数(最小限度)
   大型巡洋艦以上  5基
   小型巡洋艦以下  3基
(二)1基に対する配員標準は長1、測2、伝令1、計4名の適常とす
(三)兵器の固有能力は装備高よりも寧ろ整備調整状態に左右せられるるところ大なり
(四)電探活用の適否は有能なる電探指揮官及各電探指揮通信装置の適否に左右せられる所最も大なり
(リ)電波探知機は極めて有効に利用せられたるも尚将来左記改善を要す
(一)受信感度を現用電探受信機程度に向上せしむる要あり
(二)音量調整を更に微細に実施可能ならしめ距離推定を容易ならしむる要あり
(三)指向性空中線を21號電探空中線上に装備せるものは方向測定遅鈍にして不便なり
    別個に装備を要す
(四)「ブラウン」菅指示装置を附加し味方識別を容易ならしむること肝要なり
(五)各種電探に電鍵装置(出来得れば交話装置)を附加し味方識別を可能とならしむる如く改善の要あり
(六)探知機活用の為左記実験調査し味方識別上の参考資料を獲得し置くこと緊要なり
(1)電探源の距離対高調波数
(2)味方各種電探に対する受信特性


上記所見の中で、重要と思われる項目に関して考察する。
(ニ)敵飛行機は味方識別を使用せるものの如く13號電探に現れたる反射波は絶えず点滅を繰返しつつ接近せり
   但し21號には此の種の現象を認めず(若月)

孤独な戦闘機 電探早くの声にこたえて 連合艦隊司令部付 海軍大尉 立石行男からの抜粋 
夜間でも射撃用電探によって射撃しようとする米国では、この味方識別を重視したらしいのであって、編隊には必ず味方識別の電探を発射する装置のある飛行機がはいっておった。米国の見張電探では味方機が近づくと、その反射波と同時に味方識別電波が重なってブラウン管に出る来るので、ハッキリと味方だと判る訳である。
ところがこの味方識別の電波が、日本にとっては却って好都合なところとなった。というのは、ソロモン方面の作戦以来、米軍飛行機の来襲のあるときは、大抵、日本の見張用電探が極めてハッキリと、数秒間に1回位の割で、点滅して表れるからである。はじめは何だか判らなかったが、段々米機の味方識別電波だと判ってて来ると、この電波が出ただけで空襲警報を出すようになった。距離もかなり遠くから現れ、150粁とか200粁位のところから現れていたようである。B-24、P40、PBY等の飛行機のときは極めて鮮明に出たが、ボーイングB-17は余りはっきりと出なかった。何れにしても面白い現象だったと思っている。
a-1

 
この資料により、1942年(昭和17年)8月9日 - 第一次ソロモン海戦(サボ島沖海戦)から11月14日~15日 - 第三次ソロモン海戦(第二次ガダルカナル海戦)間の海戦において日本海軍では米海軍の敵味方識別信号の使用を認識するこことなったようだ。

ここで米海軍の敵味方式識別装置(I.F.F)の概要を紹介する。
IFF Mk III 使用周波数 157-187 MHz, I Band 
a-2

a-3

157 to 187 Mc/s continuously swept in 2.5 seconds.
Flyback time less than 0.5 second (HT is switched of during this time)
157~187 Mc/sを2.5秒で連続掃引。
フライバック時間(応答時間のことか?)0.5秒以下(この間にHT(キーワード不明)はオフになる)

このIFF信号を13號電探の指示器で表示(第2図)したことになる。
では13號電探の受信機の受信範囲を調査すると145Mhzから155Mhzの範囲であることが判るが、これでは米海軍のIFF信号を受信することは理論的には出来ない。
b-1

b-2

 
少し矛盾を感じるが、13号受信機で受信できたとの事実から、どちらかの使用周波数が丁度一致したと電波であったということだろう。
なお、21號電探にこの現象を認めずとあるのは、21號の使用周波数が200Mhzのため受信できないのは当然のことである。


(ト)24日夜間的水上部隊に近接せる際200,150,120Mcの電波を感5にて探知せり
200,150Mcは音色清澄(ピーピー)、150Mcは「ヂ―」音何れも味方のものに比し勢力強く前者は旋回時隔探信、後者は常時探信を実施しありき
時隔探信電波輻射時間は概ね30秒以上3乃至5分程度なり(日向)

米海軍の初期のレーダー開発の歴史を紐解くと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』CXAMからの抜粋
CXAM - Wikipedia
1936年8月、アメリカ海軍は、周波数200メガヘルツ(波長1.5メートル)の実験機であるXAFを製作し、1937年4月より駆逐艦「リアリー」に搭載しての洋上試験が開始された。また1938年末には、戦艦「ニューヨーク」に搭載されて演習にも参加した[1] 
これを元にした実用機としてNRLが開発したのがCXAMである。製造はRCA社が担当して、1940年5月より実艦搭載を開始し、8月までに戦艦「カリフォルニア」など戦艦・航空母艦・重巡洋艦 計6隻に搭載された。なお「カリフォルニア」は真珠湾攻撃で大破・着底したが、搭載するCXAMは回収されて、空母「ホーネット」に移設された[2]。 
また、1941年末からは、反射板をスクリーンとし、アンテナ旋回機構にも改良を加えたCXAM-1の引き渡しが開始され、こちらは1943年まで運用されていた[2]。
CXBE (SA)
CXAMはあまりに大掛かりであり、装備するには巡洋艦以上の大型艦である必要があった。このことから、より小型の艦にも搭載できるよう、アンテナを小型化して開発されたのがSAである。製造は引き続きRCA社が担当しており、1942年9月より引渡しが開始されて、最終的には計400基が生産された。その後、平面位置表示器(PPI)の導入などの改良を加えたSA-2(865基)、SA-3(225基)へと発展した[2]。 
また、さらにアンテナを1.52 m×1.83 mに小型化、重量45 kgに軽量化したSA-1も配備された。周波数も182 MHz(波長1.65 m)に変更されたが、アンテナの小型化(ビーム幅は45°×52°に太くなった)と相まって方位角精度3°に低下した[2]。 
CXBD (SC)
ゼネラル・エレクトリック社によって開発されたCXAMの小型化版がSCである。1941年後半より配備が開始された。また1942年1月には、出力を倍増することで、探知距離をほぼ倍増するなどの改良を加えたSC-1が開発され、既存のSCはいずれもこちらに改装された[2]。 
その後、SC-1をもとにアンテナを大型化したSC-2(415基生産)、電子防護能力強化などを施したSC-3(200基生産), SC-4(250基生産)が順次に配備されたほか、新開発のSRレーダーの計画遅延のため、さらにSC-5も100基生産された[2]。 
CXFA (SK)]
ゼネラル・エレクトリック社によって、いわば同社のSC-2をもとにCXAMと同大のアンテナを備えるものとして開発されたのがSKであり、大戦中のアメリカ海軍大型艦の標準的なレーダーとして広く配備された。 
また海兵隊の地上配備用レーダーとしてSK-1M(後にAN/MPS-24に改称)も開発・配備されたほか、サイドローブ削減のため、ディッシュアンテナに変更したSK-2,-3も開発・配備された。
型式    周波数                    パルス繰返し周波数
CXAM   200Mhz                     1640
SA   220Mhz                      60
SC-1   195から205Mhzまたは215Mhzから225Mhz     60
SC-2   195から205Mhzまたは215Mhzから225Mhz     60
SK     不明                                              不明

200Mcの音色清澄(ピーピー)については、CXBD (SC)のレーダーであれば、195から205Mhzの周波数を使用しており、同じ周波数帯を使用している日本海軍の21號電探で探知することは可能となる。
なお、CXBD (SC)は、VHF波ではあるがすでに平面位置表示器(PPI)機能を有しており、アンテナを回転し走査するため、傍受側の日本海軍の21號電探では定期的に感度が高低することにより旋回時隔探信なることが判断されたことになる。

USS Ranger (CV-4) 8 November 1942
<CXAM-1とYE-ZBホーミング・ビーコン装置>
c-1

 
USS Guadalcanal (CVE-60) underway on 28 September 1944
<1944年9月28日に航行中のUSS Guadalcanal (CVE-60)>
c-2

 SCもしくはSK
c-3

c-4

c-5


150Mcの音色清澄(ピーピー)については、米海軍で回転系電波発信源は特定できないが、我が軍の別の艦船からの13号レーダー波の輻射を受信した可能性が高い。

150Mc(120Mcの誤記のように思われる)の「ヂ―」については、常時探信とのことであるが、これも電波発信源は特定できないが、120Mcの電波を感5にて探知せりとのことであれば、米海軍の帰投装置であるYE-ZBホーミング・ビーコン装置の使用周波数が234〜258 MCであり、この高調波120Mcを受信した可能性があるが、日本側では逆探装置を使用したのであれば、この電波を特定した可能性がある。
ただし、YE-ZBホーミング・ビーコン装置は、回転系電波発信源であるので常時探信であれば矛盾する。
なお、「仮称電波探知機(逆探)」E-27受信機は80~400MHzの主としてVHF波を受信するものである。

※YE-ZBホーミング・ビーコン装置
https://minouta17.hatenablog.com/entry/2020/08/03/161705


(チ)対空見張用電探は13號に統一(21號廃止)の上左記事項に関し考慮の要あり
(四)「ブラウン」菅指示装置を附加し味方識別を容易ならしむること肝要なり
(五)各種電探に電鍵装置(出来得れば交話装置)を附加し味方識別を可能とならしむる如く改善の要あり
(六)探知機活用の為左記実験調査し味方識別上の参考資料を獲得し置くこと緊要なり

上記捷號作戦戦訓に基づき海軍の味方識別装置が開発された。
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二からの抜粋
第二部 電子技術兵器の実態
第三節 電波応用兵器 P152
一. 味方識別装置
昭和16年の夏伊太利海軍からの情報で、英国では味方識別装置とも称す可きものが使用されて居ることが判った。
一部省略
ところが、電探の出現によって、敵味方識別の方法に急に曙光がさした。電探との併用が今迄色々提案されたものの内の最も積極的な解法であるらしく見えたのである。海軍技術研究所は極めて簡単であったが伊太利情報を基として電探と組合せ、16年末には既に之が具体的計画を進めたが、或る目標が電探の電波に曝された場合にそれに応えて全く同じ波長の電波を送り返す技術が未解決であった等、色々の問題が残されたままに17年5月の伊勢、日向の電探実験に望んだ。そして此の実験の時にようやく技術上の一案が提起され、直ちに之を試作した。併し関係者が審議した結果は
(a)応答率が100%でないから応答しない場合は味方を攻撃してしまう。
(b)各電探に一様に応えることが困難である。
との理由で、兵器採用は見合せられた。これは英国では夙(しゅ)くこれを使って居るとの情報を耳にしたあとの判断である。
一部省略
味方識別装置は自己を曝露する恐れが多い。軽々には用いてならないと云う自重論である。
一部省略
處が19年秋の情報は敵が此の味方識別装置を盛んに使用して居ることを続々報じたのである。かくなると又問題がせわしくなる。研究再開が命じられた。そして追いかけ50基の兵器生産が緊急命令として発令されたのである。如何にも泥縄式である。此の場合斯(か)くなるには研究者側にも相当の責任があるにはあった。併しその本質は用兵者に技術の見透しがあまりに欠けて居た為である。尚日本人の考え方の特徴である他のものを兼ねさせる。所謂一石二鳥を善なりとする考えが此の場合に基調となって居たことも見逃せない。此の処置は折柄熾烈に展開することになっていた。比島方面の戦闘に単座戦闘機を偵察に用いる為、味方識別機をして電信機をも兼用せしめようとするものであった。
本来充分な準備なく、直ちに量産に移ることは技術者の決してとる可き道ではない。併し切羽つまった用兵上の要求は、遂にそれを邁進せざるを得なくした。幸に実験も順調に進み、翌20年1月には地上試験を行い、予期の性能が得られたので、更に次の実験にうつったが、一部要求性能をみたし得ず、而も比島方面の戦況も一変して、渡洋爆撃の機会も少なくなり、遂に試用の形で終戦に至ったのである。
味方識別装置は用兵者と技術者の物の考え方に不一致を来し、実現す可くして実現されなかった最も顕著な例の一つである。初めは用兵者が非常に厳格な条件を固持してゆずらず、戦力化に協力せず、必要に迫られて、用兵者が一歩譲った時には戦局が緊迫化して兵器製作が後手、後手となり、何等戦力に寄与し得なかったものである。
味方識別装置は戦術上の要求から陸海軍共通のものを是非用いたかったものであるが、両者は遂に一致し得なかった。それは電探発達の経緯が夫々異なり、その上に立つ味方識別装置は自ら違わざるを得ない為であつたのである。此の事については陸海軍電波技術委員会は極めて慎重に協議した。そして、何れ第二段の階程に於て一致させようと決めたのであった。併し運命は第一段をも完了させることなく、すべてを終わらせたのである。之程の利器に技術研究陣としては真の斧銊(ふえつ)を加えることもせず、用兵者としては先見を失い。遂に敗退し去ったのである。かっての国防責任者の動きとして実にも慚愧の極みである。
d-1

 5試味方識別装置1型 M-13 IFF(Prototype 5 Model 1 IFF)

味方識別装置の具体的な運用は、まず対空見張用電探は13號(12號の方が可能性は高い)を使用してレーダー波を放射すると、航空機に5試味方識別装置1型 M-13 IFFを搭載させていることにより、13號のレーダー波を味方識別装置が受信し、その応答信号をパルス波として送信することで、13號の指示装置に表示することができる。(上記第2.18図のとおり)


その他気付き
第一機動艦隊により、昭和19年11月11日付で捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)では、3式1号電波探信儀3型(13号)と2式2号電波探信儀1型(21号)の2機種のみの報告しかない。
基本的には、糎波レーダーである2号電波探信儀2型(22号)が全艦艇に装備されており、本来であれば22号についての戦訓が記載されていないということは、捷號作戦では活用されていなかったということなのだろうか。
大和『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、レイテ沖海戦では、1944年(昭和19年)10月25日シブヤン海で大和が戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。
戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した。
上記が事実であれば、捷號作戦戦訓抜粋(電波兵器)に22号の記載がないのか何故なのだろう。
その答えは、艦隊同士の決戦はソロモン海戦(ガダルカナル島の奪回をめぐる海戦)以来絶えてなく、以後航空機中心の戦闘ばかりである。
艦隊決戦など日本海軍が待望していただけで、アメリカはとっくに空母中心の戦術に切り替えおり、戦艦や巡洋艦は空母を護衛する地位に成り下がっていたことによる。
このため、13号、21号の対空見張レーダーによる対空警戒の機能が重要であり、水上見張兼射撃用レーダーである22号には出番がなかったことを意味することになる。
なお、糎波を利用した22号レーダーは、既に最新のスーパーヘテロダイン方式になっていたが、電磁ラッパ、円形導波管を含めた受信機までの総合利得不足のため、艦船の検知はできても航空機の検知ができず、対空見張の機能としては不適格のレーダーであったとうことである。


参考情報
隼鷹の艦橋付近のレーダーのアンテナ群
j-1 (2)


13号
j-4


21号
j-5


22号
j-6





参考文献
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08030036800、昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)
孤独な戦闘機 電探早くの声にこたえて 連合艦隊司令部付 海軍大尉 立石行男
機密兵器の全貌 昭和51年6月 元海軍技術大佐 伊藤庸二
特攻 1988年11月 御田重宝
New England Wireless & Steam Museum
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