「電子管の歴史」の年史に「PPI式レーダーを完成」と記載したのは誰か
昭和62年頃といえは、真空管は絶滅危惧種でテレビのブラウン管や電子レンジのマグネトロンの領域しかなかった時代に突入した時期であった。
だからこそ、電子管史研究会により最後の公式記録を残そうとしたのだろう。
この表題にした疑問である「電子管を中心として年史 昭和20年 電子管に関する事項」に「PPI式レーダーを完成」の記載があるが、公式には戦時中には日本側ではPPI式レーダーは完成したとは考えられていないのが一般的な見解であろう。
しかしながら、最後の公式記録である「電子管の歴史」に「PPI式レーダーを完成」を記載した人は、本機の開発プロジェクトに係わった関係者の一人であり、確かにPPIとして動作したことを確認されたことを後世に残すためにこのような記載をしたものと思われます。
ところで、この「PPI式レーダーを完成」のレーダー機種の制式名称は、5号電波探信儀1型(別名19試空3号電波探信儀30型)といい略称名を51号と称しています。
だからこそ、電子管史研究会により最後の公式記録を残そうとしたのだろう。
この表題にした疑問である「電子管を中心として年史 昭和20年 電子管に関する事項」に「PPI式レーダーを完成」の記載があるが、公式には戦時中には日本側ではPPI式レーダーは完成したとは考えられていないのが一般的な見解であろう。
しかしながら、最後の公式記録である「電子管の歴史」に「PPI式レーダーを完成」を記載した人は、本機の開発プロジェクトに係わった関係者の一人であり、確かにPPIとして動作したことを確認されたことを後世に残すためにこのような記載をしたものと思われます。
ところで、この「PPI式レーダーを完成」のレーダー機種の制式名称は、5号電波探信儀1型(別名19試空3号電波探信儀30型)といい略称名を51号と称しています。
以下に電子管の歴史編集委員会のメンバーを示しますが、この中に「PPI式レーダーを完成」に記載に関与したお方がいらっしゃったのではないでしょうか。
なお、参考に今までに調査した開発関係者を以下に示す。
開発プロジェクト関係者
総括プロジェクト責任者 桂井誠之助海軍技術少佐
高柳健次郎技師(石橋俊男氏を含む)が放送技研グループを活用してPPI方式の指示機
技研三鷹分室の鳩山道夫技師(ソニー初代研究所長)のグループがブラウン管の蛍光塗料
霜田光一技術○尉が日本無線の協力を得て送受切替管、変調放電管、導波管及び空中線関係
藤波恒雄技術大尉(現、原子力工業センター理事長)が、総体としてのエレクトロメカニカルの部分を担当
機械設計は日本無線の設計部
機上搭載の最終調整試験担当 試作機が完成に近くなったころ、斎藤技術大尉と高木技手及び放送技研から来ていた木下幸次郎氏は、22号受信機改二の改造作業から解放されて51号の調整試験のメンバーとして参加できるようになった。
一式陸上攻撃機を実験機として機上実験着手の直前までいったが、空襲激化のため、二十年四月に実験は横須賀から三沢(青森県)に移すこととなり、ここで同年七月第一回、八月第二回の実験を行い、三〇キロメートル圏内の八甲田山の反射波を明らかに捉えるまでまの成果を得た。
しかし、終戦直前の三沢基地大空襲で被害を受け、実験中断のまま終戦となって同電探は実用されるに至らなかった。
開発プロジェクト関係者
総括プロジェクト責任者 桂井誠之助海軍技術少佐
高柳健次郎技師(石橋俊男氏を含む)が放送技研グループを活用してPPI方式の指示機
技研三鷹分室の鳩山道夫技師(ソニー初代研究所長)のグループがブラウン管の蛍光塗料
霜田光一技術○尉が日本無線の協力を得て送受切替管、変調放電管、導波管及び空中線関係
藤波恒雄技術大尉(現、原子力工業センター理事長)が、総体としてのエレクトロメカニカルの部分を担当
機械設計は日本無線の設計部
機上搭載の最終調整試験担当 試作機が完成に近くなったころ、斎藤技術大尉と高木技手及び放送技研から来ていた木下幸次郎氏は、22号受信機改二の改造作業から解放されて51号の調整試験のメンバーとして参加できるようになった。
一式陸上攻撃機を実験機として機上実験着手の直前までいったが、空襲激化のため、二十年四月に実験は横須賀から三沢(青森県)に移すこととなり、ここで同年七月第一回、八月第二回の実験を行い、三〇キロメートル圏内の八甲田山の反射波を明らかに捉えるまでまの成果を得た。
しかし、終戦直前の三沢基地大空襲で被害を受け、実験中断のまま終戦となって同電探は実用されるに至らなかった。




<その後の追加調査について>
日本無線社史 五十五年の歩み 昭和46年6月1日発行 日本無線株式会社
社史編纂 委員長 小川健太郎
委員 伊藤久一、石川勇三郎、橋本とよみ、田中徳市、津用育男、増田 敏、深川修吉、米加田文雄、三宅三夫(いろは順)
当社主要事項
昭和20年(1945)
5月 陸軍移動用ウルツブルグ型電波標定機(タチ24)の国産化完成
同月 海軍航空機用射撃用電波探信儀玉3号完成
同月 海軍航空機用PPI方式の5号電波探信儀1型完成
同月 陸軍航空機用双曲線航法受信機タキ39完成
8月 終戦により工場閉鎖
10月 企業再開
12月 新商標JRC採用
社史の中では、5号電波探信儀1型レーダー完成のキーワードが最低4カ所に亘って記載されています。
逆に言えば、日本無線にとって戦時の電波兵器開発の中でも、マグネトロン(磁電管)とともに、最重要事項であるとことの証明でもあります。
ただし、タチ24、玉3号、タキ39とも終戦直前に完成とありますが、メーカーが軍に納品が完了しただけで、軍の受け入りの運用試験での検査合格ではないのも事実であります。
日本無線社史 五十五年の歩み 昭和46年6月1日発行 日本無線株式会社
社史編纂 委員長 小川健太郎
委員 伊藤久一、石川勇三郎、橋本とよみ、田中徳市、津用育男、増田 敏、深川修吉、米加田文雄、三宅三夫(いろは順)
当社主要事項
昭和20年(1945)
5月 陸軍移動用ウルツブルグ型電波標定機(タチ24)の国産化完成
同月 海軍航空機用射撃用電波探信儀玉3号完成
同月 海軍航空機用PPI方式の5号電波探信儀1型完成
同月 陸軍航空機用双曲線航法受信機タキ39完成
8月 終戦により工場閉鎖
10月 企業再開
12月 新商標JRC採用
社史の中では、5号電波探信儀1型レーダー完成のキーワードが最低4カ所に亘って記載されています。
逆に言えば、日本無線にとって戦時の電波兵器開発の中でも、マグネトロン(磁電管)とともに、最重要事項であるとことの証明でもあります。
ただし、タチ24、玉3号、タキ39とも終戦直前に完成とありますが、メーカーが軍に納品が完了しただけで、軍の受け入りの運用試験での検査合格ではないのも事実であります。
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
電子管の歴史編集委員会のメンバーの中には、「日本無線社史 五十五年の歩み」の起草メンバーで重複されている方は、深川修吉氏が唯一該当します。
このことから、深川修吉氏が電子管の歴史の中に「海軍、波長10cmのアンテナを送受信共用とする。海軍、飛行機搭載波長10cm、出力6kw、PPI式レーダーを完成」記載し、後世に記録を残したものと思われます。
なお、深川修吉氏は、元新日本無線社長で平成13年(2001年)07月24日に亡くなりました。
文献資料
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
P565 電子管を中心として年史 昭和20年 電子管に関する事項 抜粋
海軍、波長10cmレーダーのアンテナを送受共用とする。
海軍、飛行機搭載波長10cm、出力6kw、PPI式レーダーを完成
RCA社(米)イメージオルシコンカメラを開発
GHQ、レーダーの研究、製造、使用を禁止
GHQ、テレビの研究を禁止
電子管の歴史編集委員会のメンバーの中には、「日本無線社史 五十五年の歩み」の起草メンバーで重複されている方は、深川修吉氏が唯一該当します。
このことから、深川修吉氏が電子管の歴史の中に「海軍、波長10cmのアンテナを送受信共用とする。海軍、飛行機搭載波長10cm、出力6kw、PPI式レーダーを完成」記載し、後世に記録を残したものと思われます。
なお、深川修吉氏は、元新日本無線社長で平成13年(2001年)07月24日に亡くなりました。
文献資料
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
P565 電子管を中心として年史 昭和20年 電子管に関する事項 抜粋
海軍、波長10cmレーダーのアンテナを送受共用とする。
海軍、飛行機搭載波長10cm、出力6kw、PPI式レーダーを完成
RCA社(米)イメージオルシコンカメラを開発
GHQ、レーダーの研究、製造、使用を禁止
GHQ、テレビの研究を禁止
太平洋戦争日本の敗因3電子兵器「カミカゼ」を制す NHK取材班 平成7年7月 角川文庫 P92 抜粋
例えば当時、テレビジョンの研究に取り組んでいた日本放送協会の技術研究所のスタッフが、海軍技術研究所の電波探信儀の試作開発チームに招かれた。
テレビはその性能上、電波を送信し、それを受信して画像にすることから、電波探信儀のシステムと近似している。
そのためにテレビジョン研究の第一人者であった日本放送協会の高柳健次郎をはじめとするスタッフが、電波探信儀の研究にくわわったのである。
日本とアメリカのレーダーの機能の大きな違いは、受信波の表示機にあると先にふれた。
360度全方向を表示できるアメリカのPPI装置にくらべて、日本は一方向の電波しか表示できなかったのだが、実はこのPPIの開発は日本でも取り組まれていた。
そしてこの研究は、日本放送協会のスタッフが担当していた。
NHKのOBである石橋俊男さん(七七歳)は、このPPIの開発スタッフだった。
「北九州を攻撃しに来たB29が撃ち落されたのですが、B29が積んでいたレーダーの表示機がPPIだったのです。
さっそくこれを調べて、私たちもPPIの試作に取り組みました。
研究室では作ることができたのですが、終戦になってしまい実戦には間に合わなかったのです。」
こうした日本放送協会のスタッフのように、外部の研究機関及び研究者も多数くわわって日本の電波探信儀の試作は進められたのだが、結局、その個々の研究を有機的に結びつけることがうまくいかなかった。
例えば当時、テレビジョンの研究に取り組んでいた日本放送協会の技術研究所のスタッフが、海軍技術研究所の電波探信儀の試作開発チームに招かれた。
テレビはその性能上、電波を送信し、それを受信して画像にすることから、電波探信儀のシステムと近似している。
そのためにテレビジョン研究の第一人者であった日本放送協会の高柳健次郎をはじめとするスタッフが、電波探信儀の研究にくわわったのである。
日本とアメリカのレーダーの機能の大きな違いは、受信波の表示機にあると先にふれた。
360度全方向を表示できるアメリカのPPI装置にくらべて、日本は一方向の電波しか表示できなかったのだが、実はこのPPIの開発は日本でも取り組まれていた。
そしてこの研究は、日本放送協会のスタッフが担当していた。
NHKのOBである石橋俊男さん(七七歳)は、このPPIの開発スタッフだった。
「北九州を攻撃しに来たB29が撃ち落されたのですが、B29が積んでいたレーダーの表示機がPPIだったのです。
さっそくこれを調べて、私たちもPPIの試作に取り組みました。
研究室では作ることができたのですが、終戦になってしまい実戦には間に合わなかったのです。」
こうした日本放送協会のスタッフのように、外部の研究機関及び研究者も多数くわわって日本の電波探信儀の試作は進められたのだが、結局、その個々の研究を有機的に結びつけることがうまくいかなかった。
参考文献
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
太平洋戦争日本の敗因3電子兵器「カミカゼ」を制す NHK取材班 平成7年7月 角川文庫
日本無線社史 五十五年の歩み 昭和46年6月1日発行 日本無線株式会社