日本帝国陸海軍電探開発史

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2019年02月

「電子管の歴史」の年史に「PPI式レーダーを完成」と記載したのは誰か

昭和62年頃といえは、真空管は絶滅危惧種でテレビのブラウン管や電子レンジのマグネトロンの領域しかなかった時代に突入した時期であった。
だからこそ、電子管史研究会により最後の公式記録を残そうとしたのだろう。
この表題にした疑問である「電子管を中心として年史 昭和20年 電子管に関する事項」に「PPI式レーダーを完成」の記載があるが、公式には戦時中には日本側ではPPI式レーダーは完成したとは考えられていないのが一般的な見解であろう。
しかしながら、最後の公式記録である「電子管の歴史」に「PPI式レーダーを完成」を記載した人は、本機の開発プロジェクトに係わった関係者の一人であり、確かにPPIとして動作したことを確認されたことを後世に残すためにこのような記載をしたものと思われます。
ところで、この「PPI式レーダーを完成」のレーダー機種の制式名称は、5号電波探信儀1型(別名19試空3号電波探信儀30型)といい略称名を51号と称しています。
以下に電子管の歴史編集委員会のメンバーを示しますが、この中に「PPI式レーダーを完成」に記載に関与したお方がいらっしゃったのではないでしょうか。

なお、参考に今までに調査した開発関係者を以下に示す。
開発プロジェクト関係者
総括プロジェクト責任者 桂井誠之助海軍技術少佐
高柳健次郎技師(石橋俊男氏を含む)が放送技研グループを活用してPPI方式の指示機
技研三鷹分室の鳩山道夫技師(ソニー初代研究所長)のグループがブラウン管の蛍光塗料
霜田光一技術○尉が日本無線の協力を得て送受切替管、変調放電管、導波管及び空中線関係
藤波恒雄技術大尉(現、原子力工業センター理事長)が、総体としてのエレクトロメカニカルの部分を担当
機械設計は日本無線の設計部
機上搭載の最終調整試験担当 試作機が完成に近くなったころ、斎藤技術大尉と高木技手及び放送技研から来ていた木下幸次郎氏は、22号受信機改二の改造作業から解放されて51号の調整試験のメンバーとして参加できるようになった。
一式陸上攻撃機を実験機として機上実験着手の直前までいったが、空襲激化のため、二十年四月に実験は横須賀から三沢(青森県)に移すこととなり、ここで同年七月第一回、八月第二回の実験を行い、三〇キロメートル圏内の八甲田山の反射波を明らかに捉えるまでまの成果を得た。
しかし、終戦直前の三沢基地大空襲で被害を受け、実験中断のまま終戦となって同電探は実用されるに至らなかった。
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<その後の追加調査について>
日本無線社史 五十五年の歩み 昭和46年6月1日発行 日本無線株式会社
社史編纂 委員長 小川健太郎
委員 伊藤久一、石川勇三郎、橋本とよみ、田中徳市、津用育男、増田 敏、深川修吉、米加田文雄、三宅三夫(いろは順)
当社主要事項
昭和20年(1945)
5月 陸軍移動用ウルツブルグ型電波標定機(タチ24)の国産化完成
同月 海軍航空機用射撃用電波探信儀玉3号完成
同月 海軍航空機用PPI方式の5号電波探信儀1型完成
同月 陸軍航空機用双曲線航法受信機タキ39完成
8月 終戦により工場閉鎖
10月 企業再開
12月 新商標JRC採用
社史の中では、5号電波探信儀1型レーダー完成のキーワードが最低4カ所に亘って記載されています。
逆に言えば、日本無線にとって戦時の電波兵器開発の中でも、マグネトロン(磁電管)とともに、最重要事項であるとことの証明でもあります。
ただし、タチ24、玉3号、タキ39とも終戦直前に完成とありますが、メーカーが軍に納品が完了しただけで、軍の受け入りの運用試験での検査合格ではないのも事実であります。
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
電子管の歴史編集委員会のメンバーの中には、「日本無線社史 五十五年の歩み」の起草メンバーで重複されている方は、深川修吉氏が唯一該当します。
このことから、深川修吉氏が電子管の歴史の中に「海軍、波長10cmのアンテナを送受信共用とする。海軍、飛行機搭載波長10cm、出力6kw、PPI式レーダーを完成」記載し、後世に記録を残したものと思われます。
なお、深川修吉氏は、元新日本無線社長で平成13年(2001年)07月24日に亡くなりました。


文献資料
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
P565 電子管を中心として年史 昭和20年 電子管に関する事項 抜粋
海軍、波長10cmレーダーのアンテナを送受共用とする。
海軍、飛行機搭載波長10cm、出力6kw、PPI式レーダーを完成
RCA社(米)イメージオルシコンカメラを開発
GHQ、レーダーの研究、製造、使用を禁止
GHQ、テレビの研究を禁止

太平洋戦争日本の敗因3電子兵器「カミカゼ」を制す NHK取材班 平成7年7月 角川文庫 P92 抜粋
例えば当時、テレビジョンの研究に取り組んでいた日本放送協会の技術研究所のスタッフが、海軍技術研究所の電波探信儀の試作開発チームに招かれた。
テレビはその性能上、電波を送信し、それを受信して画像にすることから、電波探信儀のシステムと近似している。
そのためにテレビジョン研究の第一人者であった日本放送協会の高柳健次郎をはじめとするスタッフが、電波探信儀の研究にくわわったのである。
日本とアメリカのレーダーの機能の大きな違いは、受信波の表示機にあると先にふれた。
360度全方向を表示できるアメリカのPPI装置にくらべて、日本は一方向の電波しか表示できなかったのだが、実はこのPPIの開発は日本でも取り組まれていた。
そしてこの研究は、日本放送協会のスタッフが担当していた。
NHKのOBである石橋俊男さん(七七歳)は、このPPIの開発スタッフだった。
「北九州を攻撃しに来たB29が撃ち落されたのですが、B29が積んでいたレーダーの表示機がPPIだったのです。
さっそくこれを調べて、私たちもPPIの試作に取り組みました。
研究室では作ることができたのですが、終戦になってしまい実戦には間に合わなかったのです。」
こうした日本放送協会のスタッフのように、外部の研究機関及び研究者も多数くわわって日本の電波探信儀の試作は進められたのだが、結局、その個々の研究を有機的に結びつけることがうまくいかなかった。


参考文献
電子管の歴史 日本電子機械工業会電子管史研究会編 昭和62年11月25日 オーム社
太平洋戦争日本の敗因3電子兵器「カミカゼ」を制す NHK取材班 平成7年7月 角川文庫
日本無線社史 五十五年の歩み 昭和46年6月1日発行 日本無線株式会社

電波標定機と高射砲連動の実際の運用について

「陸軍通信学校」最後の特甲幹 平成3年4月 岡西一郎著 自費出版 P72抜粋
電探と連動する高射砲
昭和二十年四月のある日、区隊付き見習士官から「明後日の土曜日は、電探機と連動する高射砲陣地の見学に行く」との通達があった。(電探とは、電波探知機の略称で、今はレーダーという。)
当日の朝、我々第七区隊と第八区隊の生徒九十名は、徒手帯剣の服装で、鉄帽を肩に通信学校を出発した。
この鉄帽を携行する理由は、味方が射ち上げた高射砲弾が空中で炸裂し、その弾片が落下し、けがをすることがあったのでこれを防ぐためだった。
相模大野駅から小田急線に乗り、山手線中央線と乗り継ぎ、三鷹駅で下車した。
中央線と直交する道路を南へ歩いた。
行き交う人の服装は、男子は国民服、女子はモンペ姿で、必ず鉄帽か防空頭巾を持っており、空襲の合間に少しでも用事を片付けようと、忙しげに歩いていた。
約二十分歩いたころ、右手(西側)に陸軍部隊の入口があり、大きな門柱があり、「陸軍○○学校」(学校名は忘れた。)と大きく書かれた表札があった。
なお、十分程度歩くと、有刺鉄線を巡らした柵があり、入口に立っていた歩哨に芳賀見習士官が来意を告げると、一人の将校が出てきて、我々を柵の中に入れ、電探(レーダー)のところへ案内してくれた。
砲座の近くで見た電探は、右に八木式空中線(十段くらいのFMアンテナと同型)がくるくると二~三秒ごとに上下左右に向き変えていた。
左側の高射砲の砲身は、アンテナの動きと連動していた。
この八木式空中線は、通信学校の校庭に置いてあったシンガポールで押収した英国製のレーダーアンテナとよく似ていた。
空中線の下に電源箱があり、「そこで超短波のパルス波を発振させている。」と案内した将校の説明があった。
空中線と電源箱の間に鉄製のいすがあり、そこに受聴器を耳にした兵が座っていた。
彼は高射砲隊に所属する電波兵だろうか。
また、少し離れた高射砲の砲座には、二人の兵が向き合う形で座っていた。
この二人は、砲の操作をしているようだった。
しかし、この重い砲身が軽々と動くのは、油圧機構なのだろうか、電動機構なのかは分からなかったが、いずれにしても、かの戦艦「大和」に直径四十六センチの何トンかの砲が油圧機構で軽く動いていたのだから、この高射砲も油圧機構だったのだろう。
これらの連動砲は六門あって、それぞれ同じように動いていた。


以下検証内容のコメントです。
当初、この私本のレーダーと高射砲6門が連動して動作しているとの記述に疑いを持ちあまり重要視していなかった。
しかし、自費出版ではあるが戦史関連の文献で初めて電波標定機、高射算定具と高射砲が一連の流れとして連動して動作していること、且つ実戦配備されている事実が確認できたのでここで資料整理して真偽について検討する。
なお、本人の記憶違いと思うが、訪問先が「陸軍○○学校」(学校名は忘れた。)とのことであるが、三鷹駅から徒歩て南下しても陸軍関係の学校はなく、実際は陸軍東部第1903部隊調布隊の高射砲の実戦部隊が存在していることから、どうもここを訪問されてものと思う。
首都防衛(調布飛行場や中島飛行機武蔵製作所の防衛)のため昭和十八年九月三鷹市大沢の地に、陸軍東部第1903部隊調布隊は仲牛六隊長以下一八六名を以て陣地構築し、7.5cmの高射砲六門観測器材等を設置して布陣した。
「社会福祉法人楽山会」様が取りまとめられた高射砲部隊の資料があるので参考にしてほしい。
http://mitaka-rakusankai.com/
 
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レーダー装置については、半地下式の掩体で囲まれていたという。
当時の米軍の航空写真からもレーダー装置陣地を中心に高射砲陣地(6門 )×2陣地と照空隊陣地(サーチライト)から構成された防空高射砲陣地であることがわかる。
このことから、レーダー装置は大型の固定式の電波標定機と判断でき、タチ3が使用されたものと思われる。
タチ3
http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022267.html

本体装置
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ブロックダイヤグラム
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送信アンテナ
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受信アンテナ
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八八式7.5cmの高射砲
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高射算定具
オークションID:w180735599
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参考のためタチ24の高射算定具を示す。
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米軍の作戦任務報告書から
東京を爆撃せよ 奥住喜重 早乙女勝元 1990年6月20日 三省堂 P92参照のこと
ルメイ・最後の空襲 中山伊佐男 1997年8月10日 桂書房 P36抜粋

米軍の電波傍受リストから陸軍東部第1903部隊調布隊のレーダー電波と思われるものを抽出した。
00075 1852 04 3507N 13928E 080245 0217 21 122 P GL 0TA03
周波数(mc)                             00075
パルス繰返し周期数(pps)          1852
パルスの長さ(μsec)                  04
傍受時における傍受機の北緯      3507N
傍受時における傍受機の東経      13928E
傍受日時マリアナ時刻 月日年    080245
傍受日時マリアナ時刻 時分      0217
情報の出所(傍受機所属集団)       21 → 第21爆撃機集団
傍受機種別、情報入手方法         122 → B29 空襲に出撃した航空機 回転アンテナにより方向を探知
信頼度                                     P → 確からしい(Probable)
傍受波を発するレーダーの機能別  GL → 火砲照準用(Gun Laying)
米軍側による日本側レーダーの分類別 Mark Model Modification Type  0TA03 → タチ3:その他の名称:電波標定機3型(Radio Locater Model 3); タ号3型(Mark Ta Model 3)
B29の傍受場所(ほぼ三鷹市の南方に位置している)
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 上記の米軍報告資料から三鷹市の陸軍東部第1903部隊調布隊のレーダー電波であり、レーダーの機種は米軍の分析から「タチ3」であることがわかる。
ただし、東京・小岩にもタチ3が設置・運用していたのでこちらの電波の可能性もある。

東京を爆撃せよ 奥住喜重 早乙女勝元 1990年6月20日 三省堂 
2月25日「雪天の大空襲」作戦任務38番 東京空襲から P30抜粋
この作戦のため、日本側のレーダー波を傍受する目的で、6機のRCM機(Radar Counter Measure Aircraft)、即ちレーダー対策用のB29が参加し、日本側が発する周波数25Mc~3,000Mcまでのレーダー波の探索にあたった。
この周波数帯は、波長で言えば、12mから10cmまでの超短波領域に相当する。
その結果、火砲照準用の特性を備えた日本側のレーダー波が、これまでより遥かに数多く傍受された。
これは日本側がこの日の天候に迫られて、レーダーで制御された対空火器を総動員した結果だと推定している。

4月15日東京蒲田地区の空襲 作戦任務69番 P117抜粋
日本機は294機が目撃されたが、そのうち226機は攻撃せず、残りの68機により合計75回の攻撃が行われたという。
攻撃してきた機の多くが、B29を照明するために着陸燈を使用したとも、探照燈と戦闘機の連携が改善されたとも述べている。
B29は探照燈の制御を狂わせようとして、音響制御に対しては、自機の発動機音の特性を変えるために発動機の回転数をずらせ、レーダー制御に対してはロープを投下して対抗した。
ロープ(Rope)というのは綱ではなく、アルミニウム箔を7~8mmのリボンまたはテープ状に切ったものである。
B29が探照燈に捉えられた時には、専ら対空砲火が集中するのであったが、6基ないし12基を一群とする探照燈の中には、1基だけ音響またはレーダーによって制御された主たる探照燈があって、これがB29を捕捉すると、直ちに一群の探照燈が集中した。
目標上空の重高射砲や中空高射砲の射撃が概して正確であったとも、日本側の中級自動火器が2,000m以上の高度まで正確だとも述べ、夜間空襲に対して日本側が対空火器を改善したため、B29の損失比・損傷比がたかまったのであろうとも推定している。
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関連参考情報
Yahoo知恵袋から
太平洋戦争中、日本の高射砲部隊はどのようにB29に照準を合わせていたのでしょうか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12108352947?__ysp=6auY5bCE566X5a6a5YW3

「陸軍通信学校」最後の特甲幹の文中に、「陸軍通信学校の校庭に置いてあったシンガポールで押収した英国製のレーダーアンテナとよく似ていた。」との記述があったので参考に掲載する。(ただし、米軍のSCR268が展示していたと記憶していたが根拠資料が判然としない)
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追記分
「陸軍通信学校」最後の特甲幹の下記の記述の真偽についての以下検討する。
砲座の近くで見た電探は、右に八木式空中線(十段くらいのFMアンテナと同型)がくるくると二~三秒ごとに上下左右に向き変えていた。
左側の高射砲の砲身は、アンテナの動きと連動していた。
これらの連動砲は六門あって、それぞれ同じように動いていた。

陸軍兵器発達史 1999年8月5日 木俣滋郎 光人社 P145抜粋
八八式7.5センチ高射砲は日本陸軍の八割をも占める主力高射砲であり、終戦時までに本土防空にも、また第一線の部隊でも広く使用された。
これは人力でハンドルをまわして狙いを定めるのだが、照準手は指示盤の指針にピッタリ合わせるように自分のハンドルをまわせばよい。
こうすれば、砲口が飛行機の未来位置に向く仕組みで、ちょうど海軍の射撃指示装置と同じ方式である。
砲側を離れた観測班が別の位置で敵機の方向や速度、高さなどを計算して数値を電気的に誘導するのである。
その際、三角函数や微積分、連立方程式などの高等数学が応用される。
これらの照準装置のおかげで、八八式はきわめて優秀な砲として、実戦部隊でおおいに期待された。
だが、第二次大戦中には、飛行機の高速化により、発射後、弾丸が目標付近に到着するまでにニ〇秒もかかってしまい、この間に敵機は六〇〇〇メートル近くも移動しているのだから、しだいに威力を失ってきた。

別冊1億人の昭和史 陸軍少年兵 日本の戦史別巻7 1981年5月 毎日新聞 抜粋
千葉陸軍高射学校の浜松文教所の生徒が連日のように観測訓練(静岡県・米津海岸)
右端は飛行機の速度を計算する航速測定機 測高機との併用で高射砲射撃用のデータを割り出した。
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九三式3メートル測高機
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聴音機、照空燈、電波標定機(右側はタチ4、左側は型式不明だが簡易な電波警戒機)
 
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計算機屋かく戦えり 遠藤 諭 アスキー 抜粋
九七式高射算定具
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高射砲陣地の構成装置からの考察
八八式7.5cm高射砲、九三式3メートル測高機、九七式高射算定具、航速測定機、聴音機、照空燈、電波標定機、発動発電機及び情報伝達用の指示盤から構成される。
敵機から九三式3メートル測高機からの角度、距離と方向角、航速測定機からの方向や速度を九七式高射算定具にデータ入力し、高射砲射撃用の未来予測の角度、方向角や信管設定時間などのデータを算出した。
これらのデータは、セルシンモーターを利用した指示盤で各部門へ伝達された。
現代で考える中央処理装置(CPU)である九七式高射算定具を中心に周辺機器の入力機器が九三式3メートル測高機、航速測定機、聴音機、電波標定機であり、出力機器が照空燈、八八式7.5cm高射砲の周辺機器として接続されたことになる。
しかしながら、この中央処理装置(CPU)である九七式高射算定具は歯車と立体カムで構成した前時代的な機械式アナログコンピュータであり、電気的インターフェースとの相性は絶無といってもいい。
したがって、「陸軍通信学校」最後の特甲幹の高射砲の砲身は、電探のアンテナの動きと連動していたという記述は誤謬と判断せざるを得ない。
 
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ただし、以下のシステム間連動に関する資料を参考にしてほしい。
資料から考えられる装置間連動部分
聴音機は目標の現在方向、高低角をシンクロ発信機から93式探照灯の離隔操縦機に伝達させた。
探照灯は同期電動機との組み合わせによる同期運転方式を開発して、探照灯と離隔操縦機との完全同期運転を可能にした

海軍の参考資料
軍艦メカ開発物語 1997年2月7日 深田正雄 光人社 抜粋
方位盤から射撃版へ、また、射撃版から砲塔へと、いろいろなデータを伝達するには、通信機器とよばれた単相交流五〇ボルト五〇ヘルツの、いわゆるセルシンモーターが用いられた。
セルシンモーターというのは、同じ形式のモーターを相互につないで、一方をある角度だけまわすと、他方が同じ角度だけまわるもので、いまでも広く使われているものである。
軍艦の機銃射撃装置
制御系統は図のようなもので、照準装置、機銃座にそれぞれ旋廻用、俯角用の直流モーターを一組ずつギヤで噛み合わせて全群を一個の制御器で完全並列運転する。
制御用電源は一群ごとに独立の発電機をそなえる。
これは直流発電機二基と三相交流発電機一基を直流モーターと直結したものであった。
角度をぴったり合わせるには
照準装置と各機銃座が角度のずれなしに連動するには、おのおののモーターの回転数(スピード)はもとより、回転角度まで各瞬間ごとに一致していなければならない。
そこで、この角度をつねに合わせておくため、各直流モーターの軸に強力な三相セルシンモーターを直結し、旋回・俯仰角系列のセルシンモーター回路を電気的に直接結合した。
これによって系統内の旋回・俯仰はすべての瞬間において、セルシンモーターの同期引き込み角度の範囲内で、完全に同期運転されるようになった。
 
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参考文献
「陸軍通信学校」最後の特甲幹 平成3年4月 岡西一郎著 自費出版
[a1]  Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Army Radar, 1 April 1946 国立国会図書館憲政資料室、マイクロ番号:SS(F)01853-01855
東京を爆撃せよ 奥住喜重 早乙女勝元 1990年6月20日 三省堂
ルメイ・最後の空襲 中山伊佐男 1997年8月10日 桂書房
YahooオークションID:w180735599
[c1] 無線と実験 昭和17年12月号 誠文堂新光社

[e12] 日本軍実戦兵器 太平洋戦争研究会編著 銀河出版
[y2] 米国国立公文書館

オーストラリア戦争記念館
陸軍兵器発達史 1999年8月5日 木俣滋郎 光人社
別冊1億人の昭和史 陸軍少年兵 日本の戦史別巻7 1981年5月 毎日新聞
計算機屋かく戦えり 遠藤 諭 アスキー
軍艦メカ開発物語 1997年2月7日 深田正雄 光人社


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